mixiユーザー(id:36329446)

2019年08月18日00:21

88 view

三鷹の一番星、中華一番さん。

ムシの知らせというのは確かにある。
もう2年近く訪ねることもなかった小さな中華屋のことがふと脳裏をよぎった。
それは、つい先だっての帰郷の折、かつて知る馴染みの店が悉くなくなっているのを目の当たりにした影響かもしれない。

徒歩約20分。
なんとなく嫌な予感を拭いきれず、炎天下の中を辿り着いてみると、、、消えていた。
四つ角に立っていた昭和の建物は、小ぶりで瀟洒な一戸建て住宅に変わっていた。
どこかで、やっぱりという思い。

その場でスマホを叩き、ある食べ歩きマニアのブロガーさんのサイトを見つけたが、どうやら5月末で店を畳んだようだ。
ブログには、閉店の挨拶の貼り紙の写真がアップされている。
「昭和52年開業以来、云々、、、主人が体力と年齢から続けられなくなり、、、」と自らの言葉で綴ってある。

「中華一番」
それが店の名。
なんの変哲もない場末の小さな小さな中華屋さん。オヤジが一人っきりで店を切り盛りしていた。
小生が毎日のように足繁く通ったのは昭和55年から56年にかけての頃。郷里から東京に出て下宿暮らしを始めた最初の2年。ちょうど40年前ということになる。
開業昭和52年というから、小生が通っていた頃はまだ3年目の、「さあ、これから!」という時だったのか。
オヤジがまだ若く、いつも初老の母親と二人で頑張っておられた。当時オヤジは30代半ばといったところではなかったか。
お嫁さんはもらわないのか、なんて十代の若僧だった小生に訊けるはずがない。でも、後継者もなく、最後の最後まで一人きりで厨房に立ち続けていたのだから、生涯を独身で貫かれたのかもしれない。

大学3年に三鷹を離れ引越したため、一番さんとの縁もそれきりになった。
小さな店ではあったが、近くに勤める会社員や現場作業員など贔屓の固定客がしっかりと根付いていたから、小生がいなくなっても大丈夫、などと独りよがりに安心して三鷹を去ったもの。

それから15年の歳月を経た平成8年の夏、よもや三鷹に再び帰ってこようとは。
家庭を持ち、三鷹に居を構えた小生、真っ先にその健在ぶりを確かめに行ったのが、この一番さんと「若松」という名のとんかつ屋さんだったと思う。
主人はだいぶ老けたものの、双方健在であったことを何より嬉しく思ったのを覚えている。
ただ、あのおばあちゃんの姿は見えなくなっていたなあ。

家庭を持てば、貧乏学生が通うような場末の中華屋に行く機会はなかなかないもの。
一番さんの健在ぶりは確認したものの、その後23年の長き間に訪れた回数はそれほどない。

だから、それほど嘆き悲しむべき話でもないはずなのだが、言葉に尽くしがたい寂しさが身を包むのはなんなのか。
「気がついたら店はなくなっていた」というのは、親の死に目に会えなかったが如き慚愧の思いに似たものがある、なんて大仰に言っては笑われるだろうか。

18年ぶりに帰った郷里の街で、子供の頃に親しんだ店がことごとく消えてしまい、悲しい思いをしたばかりなので、感傷もひとしお。
今宵は、一番さんの在りし日の姿を目蓋に浮かべながら、独り静かに杯を傾けよう。

image1.jpeg
3 8

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する