小学生の頃、同級生に言ってしまった一言や、
数年前、SNSでコメントしてしまった一言を
忘れられないでいる。
相手が誰かはっきり憶えていて、
何を言ったかもきっちり記憶しているのなら、
謝ればいいのかもしれない。
かれど、なかなか謝れない。
謝ってスッキリするなんて、ズルいような気がする。
「謝って済むんなら警察は要らないんじゃコラ」
と、心の中で誰かが凄んでくる。
※
子供の頃からわりに最近に至るまでの、
親に言われた言葉が引っ掛かり続けている。
粗い網であっても、何かが引っ掛かったままになっていると、
次の物がまた引っ掛かりやすくなる。
用水路のゴミ取りの柵のように
心の中に屑が引っ掛かっている。
せっかくの清らかな水も流れが悪くなってしまう。
※
ひとを許せないのも、自分を責めるのも、
共通の現象だと思う。
人というものの存在を、どう見るか。
今までの発言や行動がその人の全てであるとするならば、
その人がどのような人であるかを、
その人の過去の言行によって判断することになる。
しかし、私たちが生きているのは、今なんである。
「未来」がどんどん近付いて「現在」になって、瞬く間に「過去」となる。
そして皆ひとしく、この時間の流れの上に立っている。
その人がどのような現在を生きているのかということよりも
過去に何が有ったかを見てそこにこだわる。
そういう傾向が人に有るように思う。
それは、人間という存在が時間の流れの上に乗っかっているという以上、
しかたのないことかもしれない。
経験したことの無いことに基づいて判断する、というのは
人間の生理とは食い違うことなのだろう。
※
いえね、
オリンピックの開会式にまつわる人事について騒々しいものだから、
意見を言いたくなってしまった。
一つは音楽家が中学高校生時代に、同級生の障がい者にいじめをしていたこと。
もう一つは演出家が20年くらい前に、ホロコーストをお笑いのネタにしていたこと。
いじめの内容はかなり強烈なものであるし、
笑いのネタにするようなものではないものをしてしまっていたのは事実のようだ。
世論の一部は、けしからん許せない降板だ、ということになる。
私は怖い。
過去に過ちが有ると、今、自分の力を発揮するような仕事をすることができない
日本はそういう社会なのか。
子供の頃のことだから20年前のことだからもういいとか、
そういう意味ではない。
過去の上に生きていくのが人間のさだめであるので、
過ちは消えない。
過ちの上に生きていくしかない。
過ちの有る者が良い仕事をできないのなら、
全ての刑は極刑であってしかるべきだ。
間違いを犯した者に未来は無い。
※
むしろ、過ちを犯してしまった時にこそ、
それを乗り越えて生きていけるような機会が与えられるほうが良くはないか。
断罪して道を塞ぎ絶望の時間に追い込むよりも、
あらためて今を生きて未来へ向かっていくようなチャンスが有るほうが、
社会として健全ではないのか。
やってしまったことの中身は悪い。かなり悪い。
何十年後の今も、当時と同じような認識だとしたらそれは問題だ。
しかし、何十年も変わらないだろうか。
※
メディアの中に
「このようなことは許せない」
といった表現を見ると、びっくりする。
激烈だ。
断固として許さない。
許さないという判断を変えることは無い。
変えてはいけない。
そういう強い気持ちが伝わってくる。
意志と感情の混ざり合ったとても強いモノを感じる。
怖い。
「許さない」と言わないと決めたことは無いけれど、
自然と言わなくなっている。
社会に向かってもの申すくらいなら、
まずは自分も自分の過去をすっきり許せば良い。
なんたって自分が一番かわいいからね。
自分が一番許しやすいんじゃないか。
でもなかなかうまくいかない。
社会も、より良い社会のために考えた末に
強硬になっている面も有ると思う。
でも、
ひとの人生の将来を奪うよりは
再生の機会を与えるような社会のほうが
みんな暮らしていて安心じゃないか。
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