[あらすじ] 亡父の書斎を片付ける中で、親戚の写真などを見る。
兄は亡父と亡くなった先妻との間の子で、二十歳で死んでしまった。
親戚が具体的にどういう繋がりなのか知らされないので理解できず、
また次第に付き合わなくなっていったのは、そういう事情だったのだと
よく分かってきた。
私は亡父と関係が良くなかった。
何が原因なんてことは、どうでもいいことや重要なことの色々が
降り積もってひとかたまりになって何がなんだか、
最後のほうでは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いシステムが発動し、どうしようもない。
しかし、そんなこんなも今さらもうなんでも良くなっている。
今さらもうなんでも良くなっている、という気持ちはなかなか清々したものだ。
ただ、そこに至るにはいくつかのプロセスが有ったと思う。
一つは、父が他界して、いなくなること。
ヤダヤダと思うと言っても、会わなくて済むようになったら、断然ラクである。
ただし、生きている間に関係を改善してはいないので、
問題そのものが解消しているわけではない。
思い出が美しくなったりは、しない。
しかし、わざわざ事細かに思い出して、感情を再現して、
対象も現世に存在していないのに憎しみを燃やす、
などということは私はしない。
そこまでの趣味人じゃないなー。
※
この頃また一段と清々してきたのは、
やはり、亡父の書斎を整理したことが大きい。
いつまでこのままにしとくのだ!?という、非常にスペースを取る大量の蔵書をはじめ、
日記や手帳や写真や手紙の山。
全て、過去の物である。
私は、子どもの頃からよく本を読み、
文学作品もよく読んで、好きであった。
それが、今は以前ほどは読まなくなった。
いや、純文学はほとんど読んでいない。
他の事への興味のほうが強くなった。
個人的な過去への執心に付き合っている暇は無い。という感じだ。
それがいかに巧妙に、的確な表現で、ありありと美しく書き表されていようと。
なーにグヅグヅ言ってんだ、ってなもんだ。
※
そう言いながら、こんなテーマでブログを書くのは
似たような行為だとも思う。
※
一点、言葉にしておくとするなら、
亡父が幸せでなかったのが、私は不満であった。
恋女房が先に逝き、その忘れ形見さえ夭逝したとなりゃ、
そりゃあ辛かろうでしょうけど。
でも目の前に生きて一緒に生活している妻子がいるではないか。
現実に生きている子の立場としては、自分だって楽しく生きたいですからね。
失ったものは大きいけれど、今持っているものの価値を見て欲しかった。
妻子を失ったのに、妻子を持っている。
失いっぱなしで独りきりというのと随分違うだろう。
ま、単純じゃないのは分かりますけど。
※
本箱に並んで四方の壁面を埋め尽くしていた遺品を片付けると、
かなり私の気持ちは軽くなってきた。
ところが、そんな折に母が「静夫さんの著書を読みたい」と言ったので、
片付けたばかりの本をまた出して、渡した。
妻子を無くしたことをテーマにした、最後の作品である。
「淡々として簡潔で、良い文章ね。」などなど、私に感想を話したがる。
うーん。せっかく片付いたと思ったところだったのに。
母も、亡父の遺品の一つとして、大きく存在しているような感じだ。
※※※
明日から、母は10日間のショートステイに行く。
行け行けゴーゴー行ってらっしゃいー
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