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2018年11月20日08:09

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しく、にく

一時期、ちょっと仏教の本を読んでみると、
自分の考えていたようなことが書いてあり、
ブッつぁんやるな、と思ったりした。
しかしブッつぁん以後二千何百年で、
あれこれ付け足されたりなんだりしているので、
ブッつぁんが言ったことをなるべく忠実に伝えているものは無いか、
と思った。

思ったわりに、どうもやっぱり仏教は気に食わなかった。



何かのものごとを言葉で表すとき、
ぴたりとした表現が有ると都合が良い。
それで、それぞれの分野で専門用語を使う。
言葉の意味を知っていればぴたりの表現だが、
意味を知らない者にとってはちんぷんかんぷんとなる。

仏教は私にとって、そういうものだった。今でもそうだ。
言葉が既に有って、その意味の説明、という形だと、
どうも頭に入らない。
私はどうもやっぱり、自分の経験や見聞をもとにして、
自分の頭や自分の頭を超えた想像力で、
何かの考え方に至る、という方法が、遠回りだが合っているようだ。



学校でも「先生!〇〇のツボは××と△△の境目に有るんですね!」
と、発見して報告したら、先生の返事はさらりと
「そうですよ。授業で言ったじゃないですか。」と。
授業を聞いていないわけじゃない。
ノートもしっかり取っている。
忘れているわけでもない。
試験に出れば書ける。
しかし、そうやって学習したことと、手で皮膚で実感したこととでは、
自分のものになっているかというところで全く異なる。



人間の苦しみに四つあるという。
生老病死の四苦と言う。
そうねえ。と思っていたが、この頃ちょっと考えが違う。
こういう考えを持つので、仏教なら仏教とかいう型に嵌まりたくない。

四苦と言うけれど、老も病も死も、生有ってのことではないか。
生きてなけりゃ老いもしなけりゃ病も無けりゃ死ぬわけもない。
老病死の原因が生とも言える。
じゃあ、生こそが人間の苦と言えるのではないか。

生まれてなければ、我々人間は、無い。
生を受けたから、我が在る。

その生というものは、肉体有ってのものだ。
身体が無いけど生きてます。なんて人はいない。
となると、肉体というものが問題の中心になってくる。
いかに生きるかとは、いかにこの肉体を正視するか、ということとも言える。



そんな私の考えるようなことは、とっくに誰かが言っている。
だからとっとと古典を読むべきなんだ。
ブッつぁんのときにもそう思った。
今度は誰かというと、ヨーガの考えに近そうだ。

むむ。インド人め。やるな。
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