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2019年06月18日13:44

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「7月7日 4手ピアノと空間で奏でるマーラーの世界」に寄せて・序

もう3週間を切ってしまったのだけど、昨年「魔笛」でやったみたいに、演奏会へと誘う記事を書かなくちゃと思っている。
しかしどう切り込んだものやら悩ましい。

なぜなら、「魔笛」はオペラなのでテキストがあったのに対し、交響曲にはテキストがないからだ。
昨年はテキストの解説にかなりの字数を使ったような気がする。
「魔笛」はテキストがねじれていて、それを紐解いていくことに興味を持ってもらえるかなと考えたのだ。
しかし交響曲ではそうはいかない。

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だいぶ前のこと。とある演奏会の打ち上げ会場で、たまたま隣の席に座っていた男にこう言われたのだ。
「交響曲と比べるとショパンとか詰まらないじゃないですか」
内心ムッとしつつわたしは「良いショパンの演奏を聴いたことないからそう思うのですよ」と答えたのだが、しかし自分のやっている、あるいは好きなジャンルの音楽以外には接点を持ちにくいものだということを思い知らされた。
逆に、クラシック音楽をやってるとはいえピアノ弾きだと、ベートーヴェンやマーラーの交響曲をほとんど聴いたことがないなんてことはいかにもありそうだ。

ましてマーラーの交響曲は長いのである。一般的なピアノ弾きのみなさんがマーラーの交響曲に対してどんなイメージを持っているのかわからないけど、おそらく「長い」「おっさんが好きそう」「つまらない」といったネガティブなものが多いんじゃないだろうか。という気がしてならない。

実のところこの不安はわたしのものというよりも、マーラー本人が抱えていたものだった。
交響曲第1番の初演は大失敗に終わったと言われている。マーラーの側近だったナターリエ・バウアー=レヒナーの手記には、演奏会後酷評されて意気消沈したマーラーの様子が描かれている。
だが本当に彼の交響曲は評価されなかったのだろうか?新聞評には楽章が終わる毎に大きな拍手が起こったという記述もある。
考えてみれば、評論家という連中にとってまだ評価の定まらないものに対して、褒めるよりも叩く方がリスクが小さいのである。佐村河内の交響曲に対し、偽作であることがバレてから意気揚々と「このようなものを持ち上げる人は本物の音楽家ではない」と言い放った人、またその前に絶賛してしまった人がいたことは記憶に新しい。
(このことを考えると、自分の感性のみを信じ批評を行ったシューマンの偉大さが見えてくる。たとえ首を傾げるような作品をえらく持ち上げてる、なんてこともあるにせよ。)

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渡辺裕著「聴衆の誕生」という本がある。その中に興味深い一節がある。1980年代終わり頃の文章である。
今特に「はやっている」作曲家として名前を挙げることができる存在の一人にグスタフ・マーラーがいる。しかし彼の作品は、筆者が「クラシック」を聴きはじめた二十年ほど前には、よほど酔狂な「通」でおなければまず聴く機会がなかったと言って間違いない。バーンスタインによる初の全集がようやく完成されたのが1967年のことであったことを考えれば、当時今のような「ブーム」などはとうてい想像できなかったということもうなずけるだろう。
(中略)彼の音楽をアドルノのいう「構造的聴取」の対象とするには大変な音楽的知識が必要とされるのである。それほどまでに彼の音楽は構造的に複雑である。モーツァルトやベートーヴェンの音楽ならば、ちょっと音楽を聴き慣れた人であれば比較的容易にどれが第一主題、どれが第二主題であり、どこからが展開部、どこからが再現部であるかというようなことを聴き取ることができるようになる。もちろん、音楽形式の理論を知らない人は別にそのような用語の体系を用いて分析するわけではないかもしれないが、しかし曲の中でどのような対立が生じているのか、そしてどこでそれが解決されるのかといったことを暗黙のうちに認識できるから「わかった」ような感じがするわけである。
ところがマーラーの音楽の構造は複雑すぎて、何と何とが対立関係にあるのか、どこで何がどのように転換するのか、全体はどのようにつながっているのかといったことが、ちょっと聴いただけではさっぱりつかめないのである。(中略)さまざまな専門家の行っている楽曲分析さえもが相互にほとんど一致しない有様であるから、一般の聴衆は聴きながら、ほとんど混沌たる闇の中に放り出されて、自分がどこにいてどういう状況に置かれているのかがさっぱりわからないような心境になるのは無理からぬところである。
そのようなことを考えれば、彼の交響曲がなかなかポピュラリティを獲得できなかったというのも無理からぬことであったということは理解できよう。要するにマーラーの交響曲は、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲の延長線上にあって、その構造をさらに複雑化したものであり、ベートーヴェンやモーツァルトの音楽をさんざん聴いてきた人の「応用問題」的な性格のものとして位置づけられたのである。(中略)
それならばこの二十年の間にいったい何が起こったのか。現代のマーラー人気の意味するのはだれもが「通」になってしまったおちうことなのか。その答えは、半分は正しく半分は誤っているように私には思える。(中略)現代の分衆現象はある意味で「一億総専門家化」といえるようなところをもっているが、しかしそれは決して人々の聴き方までが「専門家」したということではない。今マーラーの音楽の新しい聴衆となった人々は、決してかつての「通」のような高度な聴きわけ能力をもっている人々であるというわけではない。かつての感覚では、マーラーはモーツァルトやベートーヴェンを「卒業」いした人たちの聴くものであったから、その聴衆たちがモーツァルトやベートーヴェンの音楽をあまりよく知らないなどということがあるはずはなかったし、またそうでなくてはマーラーはとうてい「理解」できるシロモノではなかった。ところが、最近のマーラー・ファンと称する若い人たちと接してみると、コマーシャルを通じてマーラーを知るようになったマーラー・ファンが《英雄》もろくに知らないなどということが現実に生じていることに少なからず驚かされるのである。
こういう人々がかつてのマーラー・ファンと同じような意味で、マーラーの交響曲を「理解」そているとはとうてい考えられない。彼らは伝統的な「交響曲」というジャンルの延長線上にマーラーを位置づけることなく、それとは全く違った聴き方をしているにちがいないのである。そしてまたそうでなくては、構造的聴取の訓練のできていない人間が、1時間以上にわたって迷路の中にいるような体験を強いられる、あれほど複雑で入り組んだ長大な作品にまともにつきあっていられるはずがないのである。端的に言えば、彼らはかつてのファンのように全神経を集中して作品の構造を「理解」し、個々の部分を常に全体と関連させて位置づけながら「解釈」するというようなことを一切せず、眼前に次々と展開するさまざまな音のイメージに身をゆだねているのである。そしてまた、マーラーの音楽の中にはそういう「脱構築」的な聴き方を許容する要因があることも確かであり、場合によっては伝統的な交響曲の延長線上に聴かれることを拒絶する志向性をもっていると言ってもよいほどなのである。

これを読んだらモーツァルトやベートーヴェンの交響曲を全部聴いた人じゃなきゃマーラーを聴いちゃいけないみたいじゃないか!そんなお客さんに来てもらえなくなるようなことをわたしはとても書けないのだけど、マーラーの音楽の多義性をある視点からコンパクトに語ってくれている記述ではある。
「構造的聴取」という概念には少し説明が必要だろう。長い楽曲を飽きさせずに聴いてもらうのはなかなかに大変なことなのである。ただ耳に心地よい音を並べたって飽きてしまうのだ(この意味で、耳に心地よい音だけを選んで名曲を書いたドビュッシーは超弩級の天才と言える)。
だから作曲家は、長い時間飽きさせないようにするためにあの手この手の工夫をこらすのだ。その工夫はひとつひとつの素材ではなく、素材を組み合わせる構造に表れる。英語で作曲のことを compose すなわち「構成する」というのは、まさに作曲が素材を組み合わせ構成することだからだ。
ベートーヴェンはこの「組み合わせる」工夫が異常に巧い人だった。どのピアノ・ソナタも、交響曲も、もちろん弦楽四重奏曲も、構成上の工夫がこれでもかというくらい詰め込まれていて、楽譜を読むと感心させられる。19世紀の作曲家たちは皆ベートーヴェンの構成力に感服し、挑み、そしてそれを越えることを望みながら叶えられず敗れ去っていったのである。
マーラーこそ、ある意味ベートーヴェンに真正面から挑み乗り越えた最初で最後の作曲家なのである。ベートーヴェン流の構成法に慣れた、上の文章の著者のような人であれば、そこにマーラーの音楽の本質を見ずにどこに見るのだろうと感じるのは自然なことなのだ。

ところがマーラーの音楽の魅力はそれだけではない。ひとつひとつの音素材に、彼はありったけの驚きの感覚と、深い情念を込めた。それらは一見、誰にでもダイレクトにわかりやすいものであるから、シェーンベルクが指摘したように「凡庸」であるとか「感傷的すぎる」とかいった批判を浴びる原因にすらなっているのだけれども。ひとは簡単にわかってしまったものを軽んじるものなのだ。そういった理解は、たいてい誤解なのだけれども。

話をややこしくしているのが、マーラーの書いた構造は、クラシック音楽の構造に慣れた人にとってすら複雑すぎて、そういう人びとにさえ理解されていたとは言い難いという事実である。
(交響曲第1番について)ところで、この曲は音を聴く限り、いまさら何の抵抗感もないが、じつは、マーラーは古典の交響曲の習慣や枠組を、いくつかの点で破っている。むしろ、彼自身の独創的な表現意欲が強烈なあまり、それを守ろうとしたが守り切れなかった、という感がする。

それらの間にあって、マーラーの「第一」は、ひじょうに個性的ではあるが、時代様式としては進み過ぎとも、保守的に過ぎるとも言えない。

(第2番終楽章について)しかし、そこに至るまでの二つの部分の楽想は、前述したように平凡な音型の寄せ集めの感が強く、内容的な、魅力あるものとは言えない。

これがなんと、柴田南雄の文章なのである。わかってねーよ、全然わかってねーよと非常に驚いた。この程度の理解で新書1冊を書いてしまうのには呆れるしかないが、おそらく彼は自分が理解できないマーラーの音楽がブームになっていることに困惑してたのではないだろうか。ドデカフォニストなのに。いや、だからこそ「進んでいる」とか「遅れている」とかいった尺度でしか音楽を評価できなかったのかもしれない。

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そういう状況はあるにせよ、1980年代にたしかにあったように思われるマーラー・ブームが終わってしまったことは、感覚と情感に頼ってマーラーを聴くことはちょっと無理であることを示唆している。
ならばせめて、マーラーが交響曲に与えた構造、といってオオゲサであるならば、迷子にならないようにするためのガイドマップくらいは、お見せしてみるのが親切なのではないかと思うのである。
そこで次号より、簡単なガイドを書いてみたいと思う。
本稿の結論としては、マーラーの交響曲とはこのようなものなのである。
フォト

(以下次号)
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