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2020年08月08日20:39

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愛知県刈谷市芋川遺跡FIN 古衣ケ浦

芋川遺跡のある、芋川公園内から西方を眺望したのが以下の写真だが、

フォト

周囲は住宅でほぼ埋まっている。
芋川遺跡からは縄文時代から奈良時代の住居跡が出土しているが、

フォト

縄文時代の竪穴式住居平面は円形が主流で、
古墳時代以降のものは方形が主流だ。
住居跡は公園としての機能も併せ持つように保存されており、
(写真左)は40cmほど掘り下げられているのが、
そのままコンクリートでたたかれ、中央に炉石が残されている。
(写真中)も縄文時代の竪穴式住居跡だが、周囲の宴席はそのまま残され、
住居内の床はコンクリートでたたかれ、
4ヶ所の柱跡には素木の円柱柱が植えられ、椅子になっている。
中央にはやはり、3基の炉石が残されている。

案内パネルの「漁労」という項目には以下の説明文があった。

「冬至の海(古衣ケ浦:こころもがうら)は、今よりずっとワンの奥まで入りえが入り込み、遠浅で干潟がよく発達していました。芋川遺跡の北を流れる逢妻川(あいづまがわ)は、このあたりでは海水と淡水が入り混じる汽水域に当たります。そこではボラなどがすみ、春夏にはスズキが川を遡りました。当時のムラ‘の人々は、網で魚を捕ったり、丸木舟に乗って釣りをしたり、ヤスでついたりして漁をしていたと考えられます。舟で川を下れば、近海のタイやフグといった魚も撮ることが’できました。
 また、当時の人々が食べたハイガイをはじめとする貝のからが出土したことから、干潟では盛んに貝の採集が行われていたと考えらえます。古衣ケ浦の発達した干潟は貝の採集に最適な環境で、八ッ崎貝塚(早期)、佐田屋敷貝塚(前期)、上カス(かみかす)貝塚、築地貝塚(ついじかいづか)、天子神社貝塚(あまこじんじゃかいづか/後期)、中手山貝塚、元刈谷貝塚(もとかりやかいづか/晩期)など、周辺には多くの貝塚が残されました。」

上記に紹介されている貝塚の形成された時代をチェックすると、
逢妻川の上流から下流に向かって貝塚が形成されていったことが分かる。
文中にある逢妻川まで80m以内。
新逢妻橋に掛かった橋名プレートの無い橋上から
上流側を撮影したのが(写真右)だ。
(写真右)の右手に芋川遺跡は存在する。
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