御霊神社(ごりょうじんじゃ)の表参道を真っ直ぐ進むと、拝殿が鉄筋造である事が判った(写真左)。
拝殿の軒下には立派な注連縄と鈴緒が掛かっている(写真中)。
境内に設置された板碑『御霊神社の由来』には以下のようにあった。
「現在の桜区一帯は 昔刈谷林と呼ばれた茫漠たる山林原野であった ここに初めて開拓のクワが打ち下ろされたのは享保十一年(1727) 時の刈谷藩主は三浦義理である
開拓地には山屋敷を設け多数の農民が住みついた 当時刈谷林に点在した村落は旧字名の山の神 孤林 常慶 十三塚 池切 御霊山等である開拓の完成は定かでないが 今日の繁栄の礎となったことは明らかである 御霊山の字名は こゝに氏神として御霊宮を勧請したことに由る。
崇道帝を主祭神に 御鏡 勾玉 御剣の神器を奉祀建立されたものが即ち現在の御霊神社である 御霊宮は古く清和帝の頃、京都に建立された皇居の産土神で 国家の守護と民びとの愛護 幸運を授ける神として 崇敬を集めた由緒深い神社であり 全国にも数少ない貴重な存在である〜以下略」
「崇」という不吉な文字を諡号にもつ崇道帝(すどうてい)とは
聞いたことのない天皇だと思い、調べてみたところ、
桓武天皇の同母弟の早良親王(さわらしんのう)のことだった。
そりゃ祟るでしょ。
平安時代に編纂された国史『日本三代実録』(貞観五年(863)五月二十日条)に以下のようにある。
「いわゆる御霊とは崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及び観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂の事である。事に坐して冤罪のまま亡くなった魂は祟りとなった。近年疫病が頻発し多くの者が亡くなった。天下の人々は御霊が原因であると考えた。京畿より始まり地方まで広がり、夏天秋節ごとに御霊会が行われ恒例となった。」
この文献が文献上最古の御霊会の記述だという。
なぜ、崇道天皇は祟ったのか。
早良親王は藤原種継暗殺連座の疑いを受け、淡路国配流の途上薨去されるという非業の死を遂げた人物なのだ。
しかも家の遠いご先祖の親族なのだ。
天皇になるべくすでに追諡されていたが、
皇位継承候補として低位にあった兄の山部(やまのべ:後の桓武天皇)に
皇位を横取りされた形になった人物なのだ。
つまり、天皇としての名は持っているが天皇にはなっていない人物なのだ。
しかし、なぜ山部は兄なのに弟より継承順位が低かったのか。
それは山部が朝鮮半島で生まれて育った人物だったからとみられている。
親(光仁天皇)にとってみれば、自分の手元で育った早良親王の方が
可愛かったから追諡させたと推測できる。
しかし、そのことを山部の取り巻きが快く思わなかったろうことも
推測できる。
皇位継承に関して陰謀があったと考えるか、
日本国を守るために国際感覚のあった山部が必要とされたかは
考え方次第なのだ。
何れにせよ、関係なさそうな刈谷の地に崇道天皇が祀られたのは、
早良親王の御霊を鎮める必要があったからだろう。
この地で疫病などの、災害があったのだと思われる。
それにしても、霊力としては大物の菅原道真公ではなく、
なぜ崇道天皇だったのか。
それはこの地に桓武平氏の関係者が少なからず存在したからと考えられる。
桓武平氏の子孫にとって、最も恐ろしいのが崇道天皇なのだから。
で、念を込めて参拝し、拝殿内を見ると、
天井からは金色の三巴紋の入った白い神前幕が重なり、
壁には白黒の拝殿幕が張られ、
プレーンだがハレの演出された殿内となっており、
奥の小部屋に大きな神鏡、榊、注連縄、紙垂を構えた本殿が祀られていた。
社に掛かっている神前幕には五三の桐紋が白抜きされている。
拝殿直前の表参道からは直角に砂利を敷き詰めた参道が西に伸びており、
参道をまたいだ八幡鳥居の奥には銅板葺素木造の社が祀られていた。
(写真右)
鳥居の社頭学には「正一位 秋葉神社」とある。
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