東海市立平洲記念館/郷土資料館の東館の前庭には
他にも種々のものが並べられていた。
その一つが藍甕(あいがめ:写真左)で、
脇の案内プレートには以下のようにあった。
「藍染めをするときに使用したカメ。この中に占領の藍を入れ、糸などを染めた。本来は、作業場の中に埋けてあった。」
(写真左)の右端に写り込んでいる、藍甕を1.5倍くらいの深さにした、
ほとんど同じ焼き物が置いてあったが、
それには『五右衛門 風呂桶』のプレートが付いていた。
これらは東海市立平洲記念館/郷土資料館の西側の前庭に置かれていたが、
東側の通路脇にも板碑が並んでおり、
その中には頭頂に「七丁」と刻まれた板碑があった(写真中)。
案内パネル『道標』には、こう書かれていた。
「新國八十八カ所巡りぼ道標。荒尾町の熊ノ産地ないに置かれていたもので、86番目の霊場である加家(荒尾町)の観音寺まで七丁(7町=約780m)あることを示している。側面に〈ナゴヤ六句丁司〓〉とある。」
〓は司の中が吉の漢字
館内に入館してロービーから階段を北に上がると、
3つの建物を結ぶ通路になっており、
正面中央にある1室だけの平洲関連の展示室に入ったのだが、
特に興味を惹かれる展示物は無かった。
通路に出て東館の2階に向かうと、途中に窓があり、
窓の下部に案内パネル『楷の木』(かいのき)が掲示されていた。
「中国山東省の曲阜(きょくふ:周代の魯〈ろ〉の都で孔子のの誕生地)の北にある孔林(こうりん:孔子の塚がある)に、孔子の弟子であった子貢(しこう)が自ら植えたと言われる由緒のある楷の木があります。
その苗を、会津藩校日新館(にっしんかん/福島県)が育てられ、儒教学者細井平洲(へいしゅう)にちなんで、当館に寄贈、植樹してくださったものです。
楷=ウルシ科の落葉高木、中国原産。」
窓の外を見ると、Y字型に幹を伸ばした幼木が若葉を繁らせていた。
(写真右)
郷土資料の、やはり1室のみの展示室に入ると、3ヶ月ほど前に現場を訪問した高ノ御前遺跡のコーナーがあった。
展示されていたのは24点の土器片のみで、
案内パネルには、こうあった。
「高ノ御前遺跡は太田町にある木田丘陵上、標高約12mに立地しています。遺跡は明治時代の発見以降、忘れ去られていましたが、昭和28年に再発見、翌年に発掘調査が行われ、昭和42年の調査成果と共に、縄文時代晩期の遺跡であることが分かっていました。昭和52年になると、遺跡表採の縄文時代前期から後期の土器が寄贈され、市内未発見の時期の土器であり周辺の宅地化が進む中、遺跡の様相を調べるための発掘調査が行われました。
調査の結果、縄文時代前期から晩期を中心とする土器と石器、ハイガイを主体とする貝層などが見つかり、現在確認できる市内で最も古い時期の遺跡であることが分かりました。」
東海市の縄文遺跡は現時点で高ノ御前遺跡のみなので、
縄文期の展示はこのコーナーだけだった。
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