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2020年07月07日21:01

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東海市立平洲記念館/郷土資料館1 建築と米沢藩

愛知県内の縄文遺跡巡りを始めて、
博物館や歴史資料館よりも現場を中心に巡ってきたのだが、
刈谷市郷土博物館を観覧したことで、古代遺跡に関しては何よりも
まず、博物館や歴史資料館を観て、
その整理されたリストに基づいて、現場を巡ったほうが、
当然ながら撮影した写真が整理しやすいことを再認識した。
縄文遺跡巡りをしているのはバイクツーリングするのが目的だから、
箱内巡りは本末転倒になってしまうし、
下調べしないで現場を訪ねる
バイクツーリングの楽しさが失われてしまうのが残念だが、
トヨタ自動車発祥の地ということで、
他地域よりリッチな(資料が豊富で整理されている)
郷土博物館を訪ねたことで、考えが転換した。
個人的に蛇蝎のごとく嫌っているトヨタ自動車の利益が
間接的に自分の考えの転換に影響したのは皮肉なことだ。
そして、そのことが原因で、訪問する必要を感じていなかった
東海市の郷土資料館も訪問することにした。

刈谷市の牛石から西にある
大府市(おおぶし)はすでに歴史民俗資料館を訪問済みなので、跳ばして
さらに西に位置する東海市の郷土資料館に向かうことにしたのだが、
その建物は細井平洲記念館と併設された建物だった。

フォト

上記写真の中央のガラス張りの箱が1・2階吹き抜けのロビーで、
二階の奥に細井平洲関連の展示室があり、
向かって左側の箱の2階が民俗資料館となっている。
他の部分は教室やイベントを行う部屋になっているようだ。
この建物は大きくはないが、よくできている。
中央のガラス張りの大窓の向かって右手前に
小さな温室のようなガラス張りの箱があるが、
この箱は単なる通路で、ガラス扉の入り口が左側に付いている。
右側の大きな建物内に受付があるので、そこに入り口を付ければ、
まったく必要の無いガラスの箱なのだが、この建物から、この箱を除けば、
現状より、かなり平凡な建物になってしまうし、
入口からロビーに至る経路も、
恐ろしくチープなものになってしまうだろう。
それはこのガラス箱の前に上がるための4段しかないが、
2方向に登り口のある石段も同じだ。
この小さな石段は左手から車椅子で入り口まで上がれるようにするための
工夫を実現しながら、一般の入館者が入り口に至る
特別感のある経路を実現している。
平凡な設計者なら、下側の大階段をそのまま延長させて
最上段にまで上がる形にし、
階段上に平凡でプレーンな踊り場を設け、この建物全体を、
それこそ“箱”にしてしまっただろう。
この施設の設計者は、ただ入館するだけの経路として
手すりのスチールをアクセントにした石段と車椅子用スロープ、
同じくスチールの枠をアクセントとしたガラスの箱を設け、
正面の大ガラス窓に1枚ガラスを使用するような凡庸な処理は避け、
異例に幅の広いスチールの枠に板ガラスをはめることで、
石段と踊り場のある空間を
立体的で贅沢な空間として演出することに成功し、
単純な空間になってしまわないように
車椅子用のスロープさえ、巧みに利用しているのだ。
実はこの施設の入り口はもう1ヶ所存在する。
それは広い下側の踊り場につながる右側の大きな建物の角地に
団体客用の少し広いガラス張りの入り口があるのだ。
その入り口に上がるための別の石段も設けられていて、
その石段の麓脇にハルクのような見事な緑色を発色させている
ブロンズ像が設置されている(写真左)。
この発色にはこの建物の設計者が関わっていないはずはないのだが、
そのことは別にして、平洲記念館の主、ハルク細井平洲とは何者だろう。
『東海市』の公式ウェブサイト(http://www.city.tokai.aichi.jp)の
「細井平洲」の項にはこうある。

「細井平洲(ほそいへいしゅう)は、江戸時代の儒学者。米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山の師として、多くの教えを残しています。
細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海 市)に農家の二男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3年間にわたって中国人について中国語を学びました。
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾〈嚶鳴館〉を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。」

この施設の向かって左側の箱の前には緑の豊かな庭があって、
そこに姉弟椿(していつばき)と命名されたユキツバキが
若葉を繁らせていた(写真中)。
教育委員会の掲示した案内板『姉弟椿』にはこうある。

「細井平洲先生は69歳のとき、米沢藩主であった上杉鷹山の招きによって米沢を訪れました。そのとき、出迎え場所であった米沢関根・普門院の境内に椿を植えられ、今も、青々と育っています。
 この椿は、普門院の高橋有長ご住職が持参された枝を、荒尾町(※平洲生誕地)の板野夫妻が挿し木して育てたものです。
 平洲先生没後二百年を記念して、平洲先生と鷹山公の姉弟関係から〈姉弟椿〉と名づけ、記念事業でつながりを持った米沢市、群馬県太田市、長野県木曽福島町、和歌山市、熊本県人吉市の首長らによって植樹したものです。」※=AYU注

フォト

群馬県太田市は平洲の弟子高山彦九郎〈寛政の三奇人〉の一人(〈奇〉は“優れた”の意)出身地。
長野県木曽福島町は平洲と親交のあった木曽9代代官山村蘇門の関係地。
和歌山市と熊本県人吉市は平洲が賓師として迎えられた
それぞれ紀州藩と人吉藩の現在地。
「ユキツバキ」に関して
『庭木図鑑 植木ペディア』(https://www.uekipedia.jp)にはこうある。

「奥羽地方(東北)から北陸及び山陰地方の日本海沿いに見られるツバキの一種。名前からは雪のように白い花が咲くツバキを連想するが、名の由来は雪に耐えて育つことにある。枝がしなやかで豪雪に押しつぶされても、春になると枝を持ち上げて開花する力強さを持ち、初めて発見された新潟県では〈県木〉に指定される。」

ユキツバキは雪深い米沢藩を代表する樹木でもあったのだろう。

この庭には、他にも平洲と関係のある植物が植えられていた。
ウコギだ。

フォト

案内パネルにはこうあった。

「ウコギ科の落葉低木。
 若葉(写真右)が食用になり、根は強壮剤として用いられる植物。
 米沢藩主上杉鷹山候の師であった細井平洲が、米沢藩のたびたびの飢饉に備えて、武家や町人の屋敷の生垣として栽培を奨励した。」

『ようこそ、うこぎワールドへ。』サイトの
http://www.mindp.co.jp/ukogi/

「うこぎって?」には、こうある。

「ウコギとはウコギ科の植物で、米沢地方では古くから食用を兼ねた垣根として利用されています。上杉の知将直江兼続公にて米沢で栽培が始まり、後の米沢藩九代藩主上杉鷹山公がウコギの垣根を奨励したとされ、春から初夏にかけての新芽が美味しく切り和えやおひたしをはじめ天ぷらなど、様々な料理法でいただけます。」

また、「米沢で栽培するヒメウコギは中国原産の植物で、最初は薬用として日本に持ち込まれ、庭や生け垣に植えられました。」ともあり、
平洲が中国人に師事していたことが、米沢藩に伝わった要因になったのかもしれない。
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