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2020年07月03日19:34

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愛知県刈谷市八ツ崎貝塚FIN 土器

縄文期から中世に至る遺構や遺物の出土している
八ツ崎貝塚(やつさきかいづか)は久しぶりに
『全国遺跡報告総覧』(http://sitereports.nabunken.go.jp/ja)に
データが掲載されている遺跡だった。
ただ、このサイトに掲載されている情報はこれまで見てきた遺跡の中で
最低限の情報だった。
紹介されている縄文期の八ツ崎貝塚に関する概要は以下だ。

「  種別 貝塚
   時代 縄文
 主な遺構 遺構なし
 主な遺物 縄文土器/石器」

情報はこれだけだ。
『刈谷市』の公式ウェブサイト(https://www.city.kariya.lg.jp)の
「刈谷西部の縄文遺跡 【県指定史跡】」の項目には
以下のように紹介されている。

「逢妻川(※あいづまがわ)左岸にある市内最古の貝塚で、縄文時代早期後半のものとされています。発掘調査では縄文時代中期から古墳・奈良・平安時代にわたる土器や石器、骨角器なども出土しました。八ッ崎公園内に保存されています。」※=AYU注

「八ッ崎公園内に保存されています。」とあるが。
園内にそれらしき設備は見当たらなかった。

となると、出土物に関しては
この日、直前に寄ってきた刈谷市郷土博物館で
接することができるだけということになる。
刈谷市郷土博物館に展示されていた八ツ崎貝塚の出土物は
先に紹介した石鏃(せきぞく)の他には補修された土器1点と
補修できないレベルの土器片、3種のみだった。
補修された土器1点は(写真左)で、それには文様に関する説明の付いた
(図版中)のパネルが付けられていた。
土器片3種(写真右)は、このパネルの説明に対応したものだった。
この八ツ崎貝塚の土器の展示されたコーナーには
縄文時代早期の遺跡の記入された
以下の刈谷市の地形図が掲示されていた。

フォト

縄文時代早期とは約1万2,000〜7,000年前の時代だ。
八ツ崎貝塚が刈谷市最古として、縄文時代早期の遺跡は
他に佐太屋敷貝塚と築地貝塚(ついじかいづか)が紹介されているが、
八ツ崎貝塚以外の2ヶ所はノーチェックだった。
佐太屋敷貝塚は天子貝塚(あまこかいづか)と同じ
小山町6に存在するようだ。



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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年07月04日 11:07
     同じ縄文土器といっても、中部と関東とでは様式が異なるのではありましょうが、
    関東(多摩)出土の場合、前期は実用性が高いためか高さが30冂度と小ぶりで装飾も簡素なものが多いようです。
     一方、中期以降となると、関東(多摩)の場合、祭祀性が高まるためか、高さもものによっては90儷瓩い發里眦仂譴垢襪茲Δ任后
     今回紹介された土器ですが、やはり実用性重視で小ぶりかつ装飾性も低いものなのでしょうか。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年07月04日 13:03
     (追記)
     都内で見るべき土器
     縄文時代も現在も、文化が混在する東京
      望月昭秀・文
     東京都の遺蹟から出てくる土器の型式は、いくつかに大別される。加曽利E式、勝坂式、曽利式、阿玉台式に諸磯、十三菩提、関山……。極端にどれかに偏って出土しているわけでも、一つひとつの型式が東京限定というわけでもなく、どれもが東京を代表する土器とは言えない。時代によって偏りがあったとしても、東京都の遺蹟には同時期に多くの型式が混在している。それどころか同時期の集落内でも、違う型式の土器を使う住居が見つかったりもしている。P44

    関山式土器
    東京都町田市/多摩ニュータウンNo.243遺跡出土
    縄文時代前期/残存高23.7
    所蔵・東京都立埋蔵文化財調査センター
    ■多摩市落合1-14-2/TEL042-373-5296
    9時30分〜17時/12月29日〜1月3日休
     注口土器。片口の注ぎ口がついていて使い勝手がよさそう。
    ププロポーションもすっきりとした都会的な縄文土器。
    上部の紋様が幾何学文下部が羽状縄文(鳥の羽のように右傾斜した縄文と
    左傾斜した縄文が交互に施されている縄文)となっていて、品良く洒落ているP42

    十三菩提式土器
    東京都稲城市/多摩ニュータウンNo.482遺跡出土
    縄文時代前期/推定高29.0
    所蔵・東京都立埋蔵文化財調査センター
    神奈川県川崎市の十三菩提遺蹟を
    標式遺蹟とする土器。
    同じく関東の諸磯式や北陸、西日本、東北の大木式の影響などを受けたといわれている土器。シンプルながら緻密で繊細な文様を持つP42 。

    勝坂式土器
    東京都八王子市
    多摩ニュータウンNo.67遺跡出土
    縄文時代中期/高34.0
    所蔵・東京都立埋蔵文化財調査センター
    蛇を模した把手がつけられている。
    胴体はシンプルな縄文P43

    加曽利E式土器
    東京都稲城市/多摩ニュータウンNo.9遺蹟出土
    縄文時代中期/高24.5
    東京都立埋蔵文化財調査センター
    加曽利というのは
    千葉の加曽利貝塚からとられた名前だが、
    関東全域で最もよく使われた土器P43

    連弧文土器
    東京都稲城市/多摩ニュータウンNo.9遺跡出土
    縄文時代中期/残存高93.0
    所蔵・東京都立埋蔵文化財調査センター
    本文では東京ならではの土器はないとしているが、
    実はこんな土器がある。「連弧文土器」だ。
    型式としては独立しておらず、加曽利E式の中に
    含まれているのだが、その発生は東京の多摩地域と言われ、
    その分布はあまり広くない。
    東京にも「おらが土器」は存在するのだP44

    曽利式土器
    東京都八王子市
    多摩ニュータウンNo.300遺跡出土
    縄文時代中期/推定高64.0cm
    所蔵・東京都立埋蔵文化財調査センター
    デコレーションケーキのような文様が
    施されている土器。
    中心地点は中部高地、甲信越だが、東京の西側まで分布しているP44

    連弧文系曽利式土器
    東京都西東京市/下野谷遺跡出土
    縄文時代中期/高32.8cm
    所蔵・西東京市教育委員会
    ■西東京市郷土資料室/西原町4-5-6
    TEL042-467-1183/10時〜17時
    月火、12月28日〜1月4日休
    地域間の交流を示す土器。
    関東でしか使われない連弧文土器の文様が
    中部高地、甲信越からやってきた曽利式とハイブリッド。
    西武線東伏見駅にはこの土器のモニュメントが立っているP45

    勝坂式土器
    東京都国立市/南養寺遺蹟出土/縄文時代中期
    高左26.4cm、右22.8cm
    所蔵・くにたち郷土文化館
    ■国立市谷保6231/TEL042-576-0211
    9時〜17時(入館は16時30分まで)/第2・4木、12月29日〜1月3日休
    小ぶりだが手の込んでいる勝坂式。右は人体文が胴体に施されているが、
    人体文の胴部がすでに顔に見える。
    左の土器は爬虫類のような両生類のような動物に見える文様が施されているP45
    (東京人 2018 no399  都市出版)
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年07月04日 20:14
    > mixiユーザー 

    この地域の縄文土器の外形の変遷を見ると、ここに紹介した底が尖った土器が最初期の形で、次に底が平らで広く、平らな場所に置ける形のもの、最後には底が平らだがその面積が小さく、全体は底に向かって尖った、前の2タイプをハイブリッドにしたものに変化しています。

    ここで紹介した土器は装飾は口縁部のみで、他は無文、サイズは高さが25cmくらいの土器です。
    AKKIYさんが紹介してくれた都内各地の土器はいずれも刈谷市のものと比較すると、派手なものを想像してしまいます。
    八ヶ岳西麓で大量に生産されていた黒曜石製石鏃は日本海側には上越に、太平洋側では関東圏に運ばれていますから、
    距離的には富士市の方が近いのでしょうが、関東圏の方が消費者が多く、流通拠点としても関東の方が大きかったのでしょうね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年07月05日 14:52
    > AYU様
     上記の東京(多摩)縄文土器の中では、「勝坂式土器」にもっとも惹かれます。「蛇を模した把手」、「爬虫類のような両生類のような動物に見える文様」が、龍蛇信仰者の琴線に触れる、ということでありましょうか。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    >距離的には富士市の方が近いのでしょうが、関東圏の方が消費者が多く、流通拠点としても関東の方が大きかったのでしょうね。
      ↑
     土器ではないのですが、縄文時代の貝肉保存食加工向上が東京北区の飛鳥山、古河邸園の近くにあった、という記事を目にしました。 ※


    尾久車両センターは、巨大な水産加工場だった?
    中島広顕・文(北区飛鳥山博物館学芸員)
     江戸時代、日暮里や田端から崖下の畑を見渡すと貝殻の山が一望できたという、
    『江戸志』に「誠に雪の降りたるが如し 遥かに遠目にも真白に見えし也」とあり、貝殻の散布する様が雪景色さながらの光景だったことを伝えている。また、『御府内場末往還其外沿革図書』の村絵図には、田端村と中里村の村境に“蛎売山”と描き込まれている。この“かきがらやま”は、この辺りのランドマークになっていたようだ。かつて牡蠣殻は、胡粉や漆喰の主成分になる消石灰の原料として用いられ、牡蠣殻を堆く集積したストックヤードが「蛎売山」だったのである。P46
     E・S・モースが明治十(1877)年に行った大森貝塚の発掘調査を端緒に、考古学研究の黎明期を彩ったのは貝塚であった。江戸庶民に知られていた「蛎売山」もその研究大正になり、明治十九(1886)年に白井光太郎が「中里村介塚」と題して発表した。中里貝塚の初出である。白井は、中里貝塚が他の貝塚と異なり沖積地に立地し、その規模が大きいことや採集遺物に縄文土器が僅少であることを指摘した。P46
    ……明治二十九(1896)年、中里貝塚を発掘調査した佐藤傳蔵・鳥居龍蔵は、縄文時代の浜辺に造られた人為的な貝塚と結論付けた。P46、48(小生註:中里貝塚史跡広場:北区上中里2-8外、P47 、中里貝塚:北区上中里2-19、縄文時代中期〜後期初めに形成された、日本最大級の貝塚で、2000年9月に、国指定史跡に指定された。P46)
    やがて尾久駅や上中里駅が開業し、急速な市街化とともに貝塚は埋没し、忘れ去られていった。因みに、「蛎売山」が所在した場所は、尾久車両センター構内にほぼ特定できるのである。P48
     世紀を超える百年後の再発見
     平成八(1996)年十月四日、中里貝塚は、読売新聞の朝刊一面に“「水産加工場」示す大貝塚”の見出しで、大々的にスクープ報道された。公園(上中里二丁目広場)の整備に先立つ発掘調査で厚さ四・五メートルにも達する貝塚が発見されたのである。おそらく国内で最も厚い貝層であろう。しかも、貝の種類はマガキとハマグリの二種類だけで、どれも大振りで形が揃っている。さらに、貝塚に繋がる浜辺からマガキを蒸し上げて貝肉を取り出す処理施設が、国内で初めて出土した。これならば土器を使用しないで多量のマガキを一度に処理でき、浜辺がマガキの剥き身作業場になっていたことがわかった。処理後の牡蠣殻は前面に広がる干潟に廃棄されて堆積し、厚い貝層となったのだ。P48
     ところで、縄文海進のピークに達した縄文時代前期には海水面が上昇し、東京下町地域の東京低地は海面下にあった。その後、寒冷化による海退が始まると、田端から王子の崖線下には砂堆が発達し、飛鳥山微高地と田端微高地と呼ばれる二つの微高地が形成された。縄文時代中期には、この二つの微高地に挟まれた場所が内湾となり、干潟に環境変遷していった。マガキとハマグリの生息域は、マガキ礁が奥まった閉鎖的な泥底域、ハマグリは開放的な砂泥底域と異なる。P48 また、ハマグリは貝殻成長線分析から春〜夏前半、マガキは晩秋〜冬季が採貝季節になり、漁期が違う。マガキとハマグリが互層に堆積する貝層は、年間にハマグリとマガキを主体とした二回の採貝活動が繰り返し行われていた痕跡を表している。P48……大きく大量に採れ、美味なのはハマグリとマガキであろう。中里貝塚では、貝肉は干貝に加工されたと推定している。干貝は天日干しした乾物であり、乾燥によって旨味成分や塩分が凝縮され、生の貝と比べて消費期限の長期化が図れ、持ち運びに適した保存食にもなる。P50 中里貝塚が水産加工場跡と位置付けられる所以である。P50
    (『東京人 2018 no399 縄文散歩 都市出版株式会社 』)

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