刈谷市郷土博物館から八ツ崎貝塚に向かった(MAP左)。
八ツ崎貝塚(やつさきかいづか)は逢妻川(あいづまがわ)の支流、恩田川沿いに位置する
八ツ崎公園の一角に存在していた。
上記写真の左端に高台になっている部分があるが、
この小さな高台が八ツ崎貝塚だった。
公園内に入ると、公園内から八ツ崎貝塚の高台に上がるための石段が
東側と北側に設けられていることが判った。
東側の石段を見上げると、石段の上に石碑らしきものがのぞいている。
その石段の右脇の生垣の中に教育員会の製作した案内板『八ツ崎貝塚』が
掲示されていた(写真中)。
「八ツ崎貝塚は、今からおよそ六千年前に当たる縄文時代早期後半の貝塚で、刈谷市内で最も古い貝塚である。
現在の貝塚は、東と西の部分が削り取られ高台状になっているが、かつて標高八メートル前後の碧海台地と呼ばれる洪積台地の端に残されていた。昭和三十年から三度にわたり発掘調査が行われ、入海(いりみ) I II式の形式名で呼ばれる貝殻条痕文系繊維土器をはじめ、縄文時代中期から古墳・奈良・平安時代に渡る土器や、石器・骨角器それに貝殻・獣骨などが出土している。
縄文時代の人びとは、台地の北に広がる衣浦湾(きぬうらわん)における漁労を中心に、背後の森林において狩猟を営んでいたと考えられる。貝塚の北側斜面は、当時の海岸線を現状の形で保存したものである。」
この石段を登らず、高台の周囲を観るために北側に回ると、公園の北側は
南側の入り口周辺の平地より、
2m近く低い平地になっていることが判った。
二つの平地の間はなだらかな傾斜になっており、
なだらかな石段で結ばれていた。
そして、この北側にも高台に上がる石段が設けられていたが、
東側の土手のような人為的でプレーンな斜面ではなく、
東側より斜面は高いのになだらかになっており、
「当時の海岸線を現状の形で保存したものである」を裏付けるものだった。
この北側の長くて傾斜の緩い石段を登って高台の上に上がると、
高台の上は芝生に覆われ、
その中央に東側の石段に向けた大きな石碑が設置されていた(写真右)。
表面にはただ「八ツ崎貝塚」とだけ刻まれている。
石碑の左右にはサツキが植えられており、
左側のサツキは韓紅色の花を多く着けていた。
ところで、この八ツ崎貝塚碑に向かって
大きなカラスが一羽たたづんでいた。
カラスの邪魔をしないように、それでも撮影のために
3mくらいまで近づいたので、
首だけ曲げてこちらを振り返って気にしていたが、
飛び去る様子はおろかその場から動く気配は無かった。
この日は今年最高の気温で、かなりバテていたが、
高台の上はほとんどが木陰に覆われていたので、
こちらもカラスから少し遠ざかった場所の芝生に腰を下ろして、
カラスが居なくなるまで、しばし冷を取った。
カラスを見つめていると、突然飛び上がって上空を舞っていたが、
すぐに高台の端にまとめ植えされていた高木の根元に降りてきて、
せっせと何かやっている。
どうもこの高台に執着のあるカラスのようだ。
このスキにカラスの居ない石碑バージョンを撮影した。
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