2月下旬 夕刻前 薄曇り
宮内町 辯財天社の西2.2km以内に位置する
本郷熊野神社に向かった。
この日は東海市の縄文遺跡を巡った流れで、
前回寄りそびれた熊野神社に北北西の丘陵部、藤塚から降る形で接近した。
脇参道の入口脇に愛車を駐め、社頭を探すと、
それは社地の南南東側にあった。
巨大な楠が聳え、社叢の杜の入口に石造八幡鳥居が立ちはだかり、
神紋と「家内安全」の文字が白抜きされた朱の幟が林立している。
石造鳥居には2本の太い縄を捩った、鳥居の笠木より長い注連縄が
貫から下がっていた。
その太さからは別物に見えるが、出雲系の注連縄だ。
石鳥居の前には3本の車止めがアクセントのように設置され、
コンクリートでたたかれた表参道が真っ直ぐ奥に延び、
40mあまり奥の突き当たりに
唐破風と千鳥破風の屋根が重なっているのが見える。
鳥居の右脇には異体字(異なった字体で読みと意味が同一な文字)で
「村社 熊野神社」と刻まれた社号標が立っている(写真左)。
「熊野」は
ここの社頭に立っていなければ「熊野」とは読めない文字であり、
「神社」には両方の文字に「、」を付け加えて
字画を陽数(=奇数)に整えてある。
もちろん「熊野」も異体字にすることで、字画を陽数にしてある。
社号標の文字が陽数であるのは鰹木の数が陽数であるのと同様、
主祭神の男性性を示すものだと思われる。
鳥居をくぐって、表参道を進み、拝殿前に近寄ると、
コンクリートの参道は石畳に変わった(写真中)。
ここまでやってくると、
拝殿の屋根は向拝部の銅板葺唐破風屋根の死角に入り、見えなくなった。
唐破風の拝み飾りには金箔押の神紋が装飾され、
頭貫には鳥居と同じ出雲系の注連縄が下がっている。
賽銭箱に浮き彫りされた神紋が(写真右)だが、金箔が剥がれ落ちている。
気になったのは参道脇の白い手摺の付いたスロープだった。
高齢者や車椅子用のものだが、
わざわざコストを掛けて、通路が90度曲げてある。
なぜ、真っ直ぐにしないのだろうと、疑問を持ったのだが、
高齢者や車椅子の人が、
多少でも段差のある砂利部分に降りなくて済むようにする
配慮だと気付いた。
これだけではなく、狛犬や三脚の篝火(尾張の神社では珍しいものだ)、
社殿、社務所のたたずまいなど、
どれもがきちんとした神社だと感じさせる。
日の丸の旗も揚げてある。
拝殿前で参拝したが、祭神は以下の三柱が祀られていた。
・速玉之男命(ハヤタマノオ)
・伊邪弉冉命(イザナミ)
・事解之男命(コトサカノオ)
『御由緒』の一部は以下となっている。
「本郷熊野神社は、社格元村社で東海市加木屋町宮ノ脇43番地に鎮座し、地元住民の郷土意識と深く結ばれた氏神さま、産土さまとして親しまれ、限りない信仰と崇敬を集めている。
その創建は詳かではないが、古文書により神社の沿革は知ることができる。その記録によれば、永禄三年(1560年)桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元の家臣であった久野清兵衛(二代目)宗政が、駿州(今の静岡県)久能山を出てから、縁あって加木屋の住人になったのであるが、久能山を出る時、所持していた弥陀・薬師・観音の三尊の内、観音を氏神の御神体とした。これは久野清兵衛の家屋の戊亥(北西)の方向に永禄年中に宗政が寄進した氏神本社があったので、この氏神の御神体としたものと思われる。」
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