星宮社本殿の裏面にも古墳ではないかと思われる山があった。
そして、この山には名称は無いものの、中腹に2社のカグツチを祀る
第三の御旅所でもあったと考えられる。
丹八山(たんぱちやま)由来の笠寺七所神社の七神は
熱田神宮境内社の七神を祀ったものだが、
この裏山には以下2社の熱田神宮境内外摂社
・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)
・下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)
と同じ境内社がやはり摂社として祀られている。
その参道の入り口が星宮社拝殿の東脇にあって、
小型だが、石造の伊勢鳥居が設置されている(写真左)。
鳥居の奥の石段を上がっていくと、
河原石の縁石を持った参道が星宮社本殿の裏面に回り込んでいる。
本殿の真後に少し開けた場所があり、
星宮社本殿と同じ向きに銅板葺素木造の2社が祀られ(写真中)、
右手には「上知我麻神社」、
左手には「下知我麻神社」と刻まれた社号標が設置されている。
ここが熱田神宮の御旅所である可能性のあることから、
当然、上下知我麻神社は
熱田神宮の上下知我麻神社が勧請されたものと思っていたのだが、
この見方では、なぜ、鳥居山(現・丹八山)・神輿山(みこしやま)・
現星宮社が御旅所になったのかの謎は解くことはできない。
(将門調伏の呪詛が行われた時には、まだ
星宮社は、ここには祀られていなかった)
まず、熱田神宮摂社と星宮社摂社の上下知我麻神社の祭神をみてみよう。
・熱田神宮摂社上知我麻神社(旧式内源太夫社)=祭神:乎止與命(オトヨ)
・熱田神宮摂社下知我麻神社(旧式内紀太夫社)=祭神:真敷刀俾命(マシキトベ)
・星宮社摂社上知我麻神社=祭神:乎止與命/大国主命
・星宮社摂社下知我麻神社=祭神:真敷刀俾命/伊奈突智老翁
塩土老翁の別名と思われる伊奈突智老翁は
星宮社のある星崎の製塩事業に関連して、
伊奈突智老翁の関係者である大国主命とセットで
追合祀されたものと思われる。
追合祀されたのは星崎に製塩事業の起こった
江戸時代のことだと推測できる。
上下知我麻神社の祭神乎止與命と真敷刀俾命は
日本武尊東征の副将軍を務めた建稲種命(タケイナダネ)と、
その妹にして日本武尊に娶られ、草薙剣を祀るために熱田神宮を建立した
宮簀媛(ミヤズヒメ)の両親である。
真敷刀俾命の「トベ(刀俾)」は大和朝廷にまつろわぬ
女性首長(祭祀者)の称号である「戸畔(とべ)」のことであろうから、
その血統である宮簀媛が草薙剣を祀っても不思議ではない。
そして、宮簀媛の祀った熱田神宮の元宮である
氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ/祭神:宮簀媛命)が
熱田神宮から見ると、上記、御旅所三山と同じ方向に存在するのだ。
いや、同じ方向というよりも、上下知我麻神社を祀った一族は
かつての伊勢湾の海岸線(海進標高3mの時代)に沿って、
以下のように北上移住したことから、
熱田神宮境内外摂社上下知我麻神社 (名古屋市熱田区神宮)
↑
愛智郡千竃郷(ちかまごう)式内上下知我麻神社 (名古屋市南区本星崎町)
↑
氷上姉子神社 (名古屋市緑区大高町)
七神の乗った神輿は熱田神宮から千竃郷を経由して
氷上姉子神社まで渡御していた可能性が考えられる。
であれば、熱田神宮摂社の上下知我麻神社の元宮が
千竃郷の上下知我麻神社であることになる。
当然、平 将門が新皇を称した時、
すでに千竃郷には式内上下知我麻神社が存在していた。
ここに式内上下知我麻神社が祀られていたことで、
ここから見上げる形になる真後(真北)に当たる場所(現・笠寺小学校)に
乎止與命の先祖である天津甕星神が祀られたのかもしれない。
ところで、上下知我麻神社の祀られた星宮社本殿の裏山には
種々の石が複数存在していて、
裏山に登ってくる石段の途中の踊り場傍には女陰石、
上下知我麻神社の前には参拝の邪魔になる場所に、
この地では見ない目立つ石、
星宮社本殿の裏面の急斜面の土手には土手の地面を止めるための巨石が
自然石や加工石を取り混ぜて、多数置かれている。
それで、ここが古墳であったなら、それらの一部は石室に使用された石、
自然の山であったなら磐座が存在した可能性もあるだろうと、
星宮社の社地にあるすべての石を見て回った。
その結果、99.9%の石が星宮社、上下知我麻神社を造営するために
後天的に持ち込まれたものだと思わざるを得ないものだった。
しかし1点だけ、なぜ、そこに置いてあるのか不明の巨石があった。
花崗岩だと思われる(写真右)の石は
向こう側(南側)をコンクリートでたたかれた
上下知我麻神社の参道が通っており、
その参道に巨石の突き出し部分が出っ張っており、
少し通行の邪魔になるように置かれていた。
少し動かせば、邪魔にならないのだが、
明らかに現在地からは動かしたくない石だったのだろうと思える物だ。
この、ほぼ平らで長辺が1.5mほどある石Aは
左下にある同質の小型の石Bに端だけが乗っているのだが、
他の部分がどうやって支えられているのか不明なのだ。
石Aの大部分の下にあるのは石ではなく、砂で、
しかも蟻が運んできた砂と思われ、粒が綺麗に揃っている。
そして、何箇所も蟻の出入りする穴が空いている。
つまり蟻塚であり、石A、Bに合わせて蟻が後天的に築いた物なのだ。
ただし、さっきまで雨が降っていたので、蟻の姿は見えず、
現役の蟻塚かどうかは不明だが、こんな大きな蟻塚は、
映像以外では初めて遭遇した。
しかし、この砂は後天的なものなので、砂に隠れている部分に
石Aを支える小型の石が隠れているのだと思われる。
Bのような小型の自然石は上下知我麻神社の参道の両側に
点々と置かれているのだが、
なぜか、石Bの上にだけ、しかも、ちょっと引っかかったように
この巨石は乗っているのだ。
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