mixiユーザー(id:350761)

2018年10月19日20:05

259 view

愛知県一宮市佐野遺跡10 馬に化身するワニ

浅野白山社『無形民俗 水法(みずのり)の芝馬祭(しばうままつり)』の
案内書にはこうあった。

「愛知県指定文化財              昭和59年3月30日指定
 
 芝馬祭は、浅野水法白山社に伝承されている子ども(男子)を中心として行われる祭礼.祭礼日は九月の第一土曜日である.かつては旧暦の八月一日であった。
 祭礼日の朝、栽培しているチガヤを刈り取ってきれいにし、その年の年番が材料をととのえる。
午後から芝馬を作りはじめ、目や鼻。足などはホオヅキ・トウモロコシ・トウガラシ・ナスを使って作る。水法の子どもたちは、できあがった芝馬を曵いて白山社を右回りに一周し、村内をまわったあと水法川へ到着する。そして、村内の厄や災難を託された芝馬を水法川へ流して行事は終了する。
 昭和55年、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択された。                      一宮教育委員会」

この案内書には、
記紀に精通している人間ならピンとくる事柄が含まれている。
「目や鼻。足などはホオヅキ・トウモロコシ・トウガラシ・ナスを使って作る。」という部分だ。
『古事記』には八岐大蛇に関して、こう描写されている。

「頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯(ホオヅキ)のようであった。」

現在も、藁やチガヤで大蛇を制作して練り歩く祭りは
国内に複数ヶ所存在する。
もともと、お盆などで串を利用し,
野菜を組み合わせて動物のフィギュアを制作して奉納したり、
玩具としていた日本では眼球にホオヅキを利用するのは
記紀成立以前からあったことだと思われる。
このテクニックは現在では爪楊枝を使用した子供の装飾弁当に発展し、
特異な日本文化として海外に認知されている。
リンゴを皮の剥き方で兎に見立てたり、
ウインナを切れ目の入れ方でタコに変身させるのは
そうしたテクニックの入口に過ぎない。
そうした大和の風習は,
そうした文化の無い唐に対するプロパガンダとして、
『古事記』の八岐大蛇の描写として反映されたのだ。
拝殿正面の拝所から拝殿内に置かれている芝馬までは距離があり、
眼球が赤いのは確認できたが、ホオヅキだったとは。

フォト

そして、写真でUPにしてみると、後ろ脚のあたりに
トウモロコシが1本にナスビが2本置かれているのが確認できた。
それにしても馬の脚がトウモロコシとナスビの幹ではなく、果実とは。
発想の意味が解らないと、その時は考えた。
頭も、どう見ても馬には見えず、ハリウッド版の初代ゴジラか、
やはり爬虫類の頭部にしか見えない。
もしかして、八岐大蛇がアレンジされたものだろうか。
それに、水法川(みずのりがわ)へ流したはずの芝馬が
なぜ、拝殿内にあるのか。

フォト

少なくともネット上には今年の芝馬祭の芝馬が
川に流されて行く写真が露出しているのだ。
毎年、2体制作されているということなのだろうか。

一宮市の公式ウェブサイトをチェックしてみると,
(http://www.city.ichinomiya.aichi.jp/)

この祭の由来が紹介されていた。

「この祭りは鎌倉時代の1281年(弘安4年)蒙古軍14万襲来の時にこの地から出征した軍馬が大活躍をし、日本軍の勝利に貢献したことが、この祭りの起源であるといわれています。」

馬でなければいけない理由があることが解った。
さらに芝馬の足元のトウモロコシとナスビに関する記述もあった。

「ナスとホオズキとトウガラシで作った眼、丸木の足、トウモロコシとナスで作った男のものをつけ、とうきびを差し込んで尾とします。」

そこにはこの祭に男子しか参加できない理由も含まれているのだが、
「丸木の足」、そう言われて見ると、
たしかに拝殿内のワニには棒が2本、台の上に乗っていた。

眼球の確認だが、
幸いなことに、浅野白山社の拝殿は透明なガラス窓に囲われ、
芝馬は窓際に置かれていた。
拝殿の奥に廻って芝馬を見ると、「丸木の足」が開かれ、
腹這い状態で置かれていることが確認できた(写真左)。
頭部(写真中)の制作法に関しては、こう説明されている。

「チガヤで上あご・舌・下あごの3部分を作り、これを重ねて藤蔓
(ふじづる)で締め上げ頭部を作ります。」

胴体の首を締めてある藤蔓に付けてある藤蔓の輪っぱは
年長の子ども2人が両側で持って芝馬の舵取りをするための
「ホンチク」と呼ばれるハンドルだ。

眼球だが、ナスビ・トウガラシ・ホオヅキが組み合わせてあるのだが、
粘土で造形して着彩されたものになっている(写真右)。

Youtubeに紹介された芝馬祭の氏子たちの着用している法被を見たところ、


菊桐姫(菊理媛神)に由来すると思われる、
白地に白桐(五三の桐)を染めた法被を着用しているので、驚いた。
そして、芝馬を曵く様子をどう見ても、芝馬は脚があるにもかかわらず、
馬ではなく、鰐(竜)である。
これは馬が竜の化身であるという
故事を表現しているのではないかと考えた。
その故事が中国のものであるという妄信は
そろそろ捨てる時代がやって来ている。
漢字の起源を含め、中国人が自分たちの文化だと
西洋人たちにプロパガンダして、自らが信じて疑わない文化の多くが
縄文人の文化の影響を受けたものなのだから。
現在の芝馬にはついに山車のように台車が付いているように進化し、
そのために、より竜(鰐)になってしまっているが、
少し前までは芝馬にに結ばれた多数の縄で持ち上げて移動していたという。
頭部を持ち上げるための輪っぱは現在も付いている。
つまり、四脚とトウモロコシとなすび2コで形成された“男のもの”は
ブラブラ下がっており、馬の形態をしていたのだ。
馬の形態をしながら、脚を目立たない形態で付属させ、
竜(鰐)として祭っていたのは
偶然なのか、計画的なものなのかは、今や不明だが,
この芝馬祭りが馬と竜(鰐)がメタモルフォーゼ(変化)する様を
表現した祭である可能性は考えられる。
「芝」はチガヤを指しているのだと思われるが、
それは河原の土手に自製する雑草であり、鰐の生息するのに適した場所だ。
鰐が日本神話に登場する動物であることからすると、
ここも出雲族が入植した地である可能性がある。
それを裏書きしているのが、この神社で行われているもうひとつの祭、
八雲社天王祭だ。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する