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2019年08月23日11:46

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「未来が過去を変えるー歴史の中の『戦後70周年』 >満州の在留邦人の一部が、自らを「満州人」と呼び関東軍と抱き合いで東京に叛旗を翻した可能性は十二分にあった。>>

>その結果は、中国や朝鮮半島の人々の反日の革命を深刻な形で誘発しただけでなく、それへの対処と後遺症によっては、ロンドンやパリで現在でも間欠的に生じる暴力やテロを東京も経験していたかもしれない<




 山内東京大学名誉教授・明治大学特任教授から、「未来が過去を変えるー歴史の中の『戦後70周年』」というテーマの下、概要以下の発表があった。

今年は第二次世界大戦の終結、日本の敗戦から70年にあたる。この70年という数字はどのような意味があるのか。確かに歴史的事件について、70年、100年を節目に考えることは、しばしば行われることであるが、本日は、世界史との比較において考えてみたい。まず今年2015年は、第一次世界大戦のトルコ人とアルメニア人との間におきたグレート・カタストロフィー(大惨事)と呼ばれる事件から100年にあたる。ここには、東アジアにおける歴史認識にも増して大変複雑な歴史認識の問題が生じている。アルメニアの首都エレヴァンでは、4月24日に、アルメニア人の受けたいわゆる「ジェノサイド(集団虐殺・集団抹殺犯罪)」の犠牲者を追悼する式典が開かれ、ロシアのプーチン大統領やフランスのオランド大統領も出席した。しかし、片方の当事者であるトルコがどのような対応をしたかと言うと、その翌日に、第一次世界大戦中にトルコがガリポリ半島でイギリスとアンザック(豪州とニュージーランド)の軍を撃退した「騎士道精神」に溢れた最後の戦を追悼する行事を催した。大事なことは、そこに英国のチャールズ皇太子や豪州のアボット首相、ニュージーランドのジョン・キー首相も参加したということである。トルコ外交は、英連邦の首脳らを参加させることによってアルメニア人の批判する「ジェノサイド」問題を相殺する成果を挙げたと、外交史的には言える。日本は万事につけてトルコのような対抗的行
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事をするはずもないが、日本でいう70年、トルコ、アルメニアでいう100年という、歴史学でいう「時間の区分」は、過去にこだわり続けるのか、未来を見つめるのかで、評価の力点が違ってくる。そこに歴史認識の難しさがある。日本と中韓の関係を見ればわかるように、歴史認識は単純に過去にのみ関わる問題ではなく、むしろ過去以上に、それぞれの時代を生きる人々の問題である。そこには現代を生きる我々の状況が複雑に反映しているという点に、歴史認識の難しさがある。つまり、戦争や植民地支配といった第二次世界大戦前の問題である以上に、日本の戦後の帝国解体や植民地支配終焉後のトピックなのである。つまり、歴史があって歴史認識が存在するのではなく、歴史認識があって初めて「歴史」が存在するという性格をもつものである。
このような点で興味深い事例は、2013年の三・一独立運動記念式典における隣国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の発言である。朴大統領は、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることがない」と語った。歴史家としては、この1000年の歴史というのはどこを起点にし、どこで終わると考えているのかという点が大変興味深い。いわゆる「千年恨」と言われる現象は、あえて推測すれば、個別のいわゆる「慰安婦」が生み出された不定時の過去から「加害」と「被害」の関係が生まれたのか、あるいは、日本の1910年の日韓併合の時からなのか、あるいは、もっとずっと前の高麗の顕宗4年(日本史の長和2年、左大臣・藤原道長)の時期に遡って現在までの千年なのか。いずれにせよ、千年を過ぎても両者の関係は変わらないとするならば、政治外交における彼我の妥協や譲歩は本質的に難しいということになる。何をしても歴史認識では表面だけの和解にすぎないことになる。実際、2015年3月3日、韓国外務省高官が日本との歴史問題に関して「加害者というものは(被害者に)100回でも詫びるべきではないのか。何回(謝罪を)しようと関係ない。」と述べたと伝えられている。これは、韓国の歴史認識へのこだわりが、史実、歴史的事実の厳密な確定よりも、政治外交の場で「加害者」や「謝罪」といったキー概念を未来にかけても使い続ける権利を留保または示唆したと受け止めるのが自然ではないかと思う。

歴史はもちろん直線的には進まない。日本の敗戦と帝国の解体も全く同じことである。日本の識者の中には、中国やアジアを植民地化した列強進出の時代に乗り遅れ、欧米の論理を遅れて採用した日本だけが非難を浴びることに我慢がならないという人も、まだいるようである。しかし、これは基本的に誤っている。日本の対英米開戦が西洋のアジア植民地の独立を促したと評価する人々は、戦後どの帝国であれ解体していった歴史の趨勢、流れを理解していない。大日本帝国の崩壊を否応なく、歴史的には先に経験した意義は、敗戦の意味と繋がっているとはいえ、結果として積極的意義をもつことになる。連合国、戦勝国として切
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り抜けた大英帝国は、「回印分離」独立というインドの独立によってパキスタンとの間に1100万人の難民を広大な印度亜大陸で流浪させ、100万人の死者を出すことになった。また、ナセルのスエズ運河国有化の直後にフランスが起こした大義なきスエズ戦争は、ノイローゼが進み突発性の精神病の症状を呈し、収まってみれば神経が綻びて萎縮したような帝国の自己崩壊を自ら招いてしまった、という歴史家の評価があるほどである。

フランスは、8年間にわたるインドシナ戦争で、およそ9万4000人の戦死者を出し、アルジェリアでも2万9000人の犠牲を払ってアフリカ植民地帝国からの撤退を余儀なくされた。日本がもし帝国を維持し満州国での権益に拘っていたとすれば、これは歴史においてアルジェリアのピエ・ノワール(フランス人コロン)が自分達こそが「アルジェリア人」だと呼んで現地駐屯軍に依拠してパリ政府に叛乱したように、満州の在留邦人の一部が、自らを「満州人」と呼び関東軍と抱き合いで東京に叛旗を翻した可能性は十二分にあった。その結果は、中国や朝鮮半島の人々の反日の革命を深刻な形で誘発しただけでなく、それへの対処と後遺症によっては、ロンドンやパリで現在でも間欠的に生じる暴力やテロを東京も経験していたかもしれないのである。すなわち、帝国と植民地支配の時代はいずれにしても終わっていたという認識を持つことが大事である。

1931年の満州事変に始まり1945年に終わった日本の大陸への侵略と経営、他のアジア諸国における植民地統治や軍政は、しばしば一般市民を犠牲者にする大きな悲劇を生んだことは事実である。戦争中の中国や東南アジアにおける我が国の軍による残虐な事象をなかったかのように語ることはできない。ジョージ・オーウェル的な表現を借りれば、「事実に仕立てあげられた虚偽」は許されるものではない。だからといって、1945年の大敗北の後に日本国家が、これ以降未来に向けて衝突を回避するために必要なハンドルとブレーキを備えていないという一部西欧人たちの指摘は、これは私達からすると歴史の「曲筆」に過ぎるのではないか。

いずれにせよ、日本を批判する者たちが、日本人が犠牲者としての側面を加害者としての行為にすりかえていると論じる余り、歴史の解釈を古典的な「名教」(人の道を明らかにする教え)にスライドさせ、往々にして「曲筆」に走ることはないだろうか。どの立場や主義主張であっても、日本では学問と執筆の自由が保障されている。その面では、おあいにくさまというところかもしれないが、外国の一部が語るように、日本では曲筆以上に政府への批判や提言を含めて「直筆」を当然視する者が圧倒的に多数であるということを、私達としては語っておかねばならない。


中国や韓国は、歴史解釈を「名教」と見なす余りに、「直筆」という点では遺憾な点が多く目立つ。いわゆる「慰安婦」や「南京事件」につき、日本の理性的
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な歴史家、良識のある政治家の多くは「事実に仕立てられた虚偽」として否定しているわけではない。指摘されている事象について、史実として当時の日本帝国政府や帝国陸軍の関与の有無、死者の実数や実相を実証的に明らかにせずに、被害を想像させる現象さえあれば、あとは「使命感」によって歴史と数字を作れると信じることについて、違和感を覚えるということなのだ。ましてや、そうした作業をそのまま外交の領域に持ち込んで謝罪や反省の文言を引き出そうとする志向に、歴史をまず実証感覚で見ようとする普通の日本人は懐疑心を寄せざるを得ない。
南京事件については、私も参加し、また、北岡座長代理が当時の座長として統括された日中歴史共同研究でも、日本側委員は南京事件の死者数について学説を紹介し、20万人を上限とし、4万人説や2万人説もあると虚心に紹介したが、中国側委員は、被害者総数を30万人以上だと断定し結束して譲らなかった。つまり、焦点は、歴史の謙虚な究明よりも、敢えて申せば、史実よりも政治の論理に基づく外交的屈服を「加害者」の義務として日本が恒常化するメカニズムを何らかの形で現代日本の官民が受容するのか否かという点が中国側の大きな関心だったと、日中歴史共同研究の委員として痛切に感じた次第である。

いずれにせよ、今の中国政府と共産党は、日本が戦後70年間歩んできた平和国家の実績やODAを介した繁栄への貢献を、日本の反省や謝罪の謙抑な現れとして認めようとしない。事のついでに敢えて申せば、中国史における文化大革命などの悲劇的な現代史の現象について、推計はあっても当局による公式の数字資料は発表されていない。自国の同胞の悲運や悲劇について実数を公表していない事件が多すぎる。歴史学研究の基本となるべき数字について、きちんとした統計がない、或いは、それを発表できない歴史認識は誠に不幸というほかない。
少し拡げて考えれば、トルコとアルメニアの問題は、我が国と中国・韓国との関係を考える際、大変重要な参照材料となる。トルコ政府は、この悲劇に対して哀悼と同情を表すが、賠償や補償を公式には伴わないことをいつも強調している。しかし、こうした立場は、世界史的に見て、日本の経験を見た場合、大変楽観的であると私は考える。日本の経験は、歴史上の事件とはいえ過去を外交的に謝罪すれば、それは公式の補償、関係者による個人訴訟も含めて必ず補償要求が出ることを示唆しているからである。1992年にいわゆる慰安婦問題が起こると、旧帝国陸軍や帝国政府の関与についての事実と実態の究明や資料調査を後回しにして、対象と根拠がはっきりしない謝罪を繰り返した。宮沢首相は訪韓時の3日間に13回も「お詫び」と「反省」の意を表したことが確認されている。これは、日韓基本条約によって韓国とその国民に対する請求権の問題が最終的に解決されたと規定している以上、「反省」をいくら表明しても補償などの財政的負担が生じないという法的解釈からであったようである。ところが、韓国の政
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府や世論は、「誠意なき謝罪」をこぞって非難し、「適切な補償」を求めるに至った。その結果、日本は韓国側の司法判断や外交要求などを含めて、ゴールポストが常に変わる日韓関係の懸案解決に苦しむことになったわけである。

日本はこのように、戦前という時間軸に遡及して過去の一部を繰り返し反省した事実と結果に立ちながら、70年経った現在の時間軸において戦後日本の平和主義と国際協調主義の成果を語ることで、歴史における重要な要素である、進歩という要因を確認しなくてはならない。もし70年の談話を出されるのであれば、それが大きな出発点になるのではないか。

今年の4月22日にジャカルタのバンドン会議60周年の首脳会議が行われたが、そこで総理がバンドン会議に寄せて、「侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全、政治的独立を侵さない」、「国際紛争は平和的手段によって解決する」という原則を改めて確認した。「侵略」への反省をしたと内容から読み取れるわけであり、当然コンテクストは、村山・小泉両首相の談話や関係者の声明を踏まえながら、精神として内容を受け継ぐと表明したと受け止めるのが自然であろう。

このような文脈の中で、最近5月に自民党の二階総務会長が訪中したが、その際、習近平首相は、先ほどのジャカルタにおけるバンドン会議において総理と会見したことを踏まえ、「徳不孤 必有隣(徳ハ孤ナラズ、必ズ隣有リ)」と論語の里仁(りじん)篇の有名な言を引いたと紹介されている。「徳のある者は孤立せずに、必ず隣に友人がいる」とは、徳のある者が中国なのか、日本なのか、これはなかなか含蓄深い言葉であるが、ともかく、中国は日本との関係改善に向けてある種の積極的なメッセージを送ってきた点を評価すべだろう。

同じように『論語』八佾(はちいつ)篇を引いて私が理想論を語れば、「成事不説 遂事不諌 既往不咎」(セイジハトカズ、スイジハイサメズ、キオウハトガメズ)」ということではないか。つまり、後世の人間達にいつまでも起きたことについて語る、これはやはり孔子が説いているように、起きたことについては、もはや語らない、済んだことは、もはや叱らない、過去の過ちはもはや咎めない、そういう時期がいつか来る、あるいは、来ると信じなければ、そもそも国交や関係の正常化、関係の深化というものは生まれない。1000年経っても「加害者」と「被害者」の関係は不変であるという独自の「時間区分」や「時間軸」を出されると、現代を生きている我々はともかく、我々自身が現代の歴史に生きている者として、未来後世の国民への責任を負いかねるということになる。「謝罪」や「反省」の要求をいつも政治外交の第一課題にするのか、未来に向けて「平和」と「相互依存」に依拠した懸案や寛容を文明論として確認しあうのか。これは、学問というよりも、政治外交の基本姿勢とアプローチに関わるものである。


最後に私が申し上げたいのは、未来が歴史を変えていくということである。歴
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史認識の問題が外交に持ち出される場合、それを解決するのは、基本的に竹島の問題であれ尖閣列島の問題であれ、学者や知識人ではない。ましてや、この21世紀構想懇談会のメンバーなどの「識者」ではありえない。それは長期の国益を見据えて、まさに「徳不孤 必有隣」と信じて決断を行う政治家の皆さん、総理大臣を始めとする政治家のリーダーシップなのである。専門家による歴史共同研究で解決できると楽観的に言うのは、これは歴史学者に国の最重要懸案の解決をゆだねられるに等しくナンセンスである。韓国の一部からいわゆる従軍慰安婦に関する共同研究をしようという声が出ているが、そもそも従軍慰安婦というカテゴリーあるいはその内容について何を問題にするのかは、「強制性」や性の道徳・慣習一般あるいは他の面のいずれかを重視するのかによって、日本人研究者の間でも意見が分かれるだろう。共同研究を行うというのは、学問研究と道徳観を同化させ相手の立場に同一化する極端な見方を例外とすれば、人びとが考える程なかなか簡単なことではない。しかし、歴史共同研究が果たす役割を無下に否定することもできない。それは、政治や外交におけるリーダーシップや決断に貢献する、少なくとも大きな根拠、手がかりというものを与えるのが、学者、有識者の職業的な使命だからである。しかし、いつまでも、どのテーマでも、どこで齟齬が生じるか、どこで挫折するかについては、我々は経験値として非常に容易く道筋を予測できるのが、これまでの日中、日韓の共同研究であった。これだけでは21世紀の新しい日本の針路とアジアへの貢献度を深めることはできない。東南アジアから南アジアひいては中東にまで広がる世界には、かつての中国や韓国にもそういう人達がいたように、明治維新や日露戦争などに象徴される近代史における日本と日本人の役割をマクロかつ広角度で評価する国々や人々も多い。

これとの関連でも、バンドン会議60年やアメリカ議会上下両院における総理の演説を、虚心かつ前向きにとらえたアジアやイスラーム世界のリーダーや世論が多いことに気がつく。あるとすれば、欧米も含めた世界史の大きな文脈でアジア歴史共同研究をおこなう可能性、イスラーム圏という大きな括りとの歴史共同研究は、これまでの非常に固定化された枠組みとは異なる歴史認識の問題について考える、新たな地平を開く可能性がある。もちろん地政学的に大きな変化が生じている地域との歴史共同研究は、学術交流として大変興味深いだけでなく、東南アジアを軸とするアジア青少年交流というものの核にもなる。女性交流の重要性をあえて私が語るのは、仕事に意欲をもつ輝く現代女性に対して失礼であろう。
歴史認識の在り方で必要なのは何であろうか。実現は難しいにしても、私は原理的に確認すべきことは、第一に、互いに長所と短所があれば、長所を評価して短所に寛容になる努力をすることである。中国の歴史家に劉知幾という人物が
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いる。我々歴史を学ぶ者にとって大変重要な歴史理論の書「史通」という書物の作者であるが、劉知幾の教えは、私はいつも、拳拳服膺するところである。「遠い昔、諸侯は互いに覇を争い、勝負の行方は定まらなかったが、その当時の史家は、他国の善い点は必ず賞讃して書き、自国の悪い点は隠しだてをすることがなかった。ところが近い時代になると、史家の公平な記録は耳にすることがなく、自づから自国の秀れた点を自慢し、他国の劣った点をあげつらうことが起こった。」。
第二に大事なのは、歴史はよく未来志向でとらえると言われるが、基本的にはやはり、「ふりかえれば未来(バック・トゥ・ザ・フューチャー)というのが、正にそれにあたる。戦後70年をとらえるのでも、未来につながる歴史認識というものを持つべきではないか。つまり、国際協調主義や平和主義、その実績を積んできた70年という時間の流れを前向きに見るのか、それとも70年前に遡ってそれから以前の歴史を遡及的に眺めるのだろうか。同じ戦後70年に談話を出す場合にも、もし未来につながる歴史認識を持つならば、眺める過去は現在の光景から見て相当に変わるだろう。私は25年ほど前、まだ若かった頃に「ラディカル・ヒストリー」という本を書いた。それにあるグルジア人哲学者の言葉を引用したことを覚えている。「我々は未来が輝かしいことを知っています。変わり続けるのは過去なのです」。私はこういう観点から戦後70年をとらえる基本的な視座を得たいと思っている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/21c_koso/dai6/gijiyousi.pdf
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