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2015年06月18日12:08

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エドガール・モラン『人間と死』は、冒頭 「人間の諸科学はいつも死を無視してきた。」で始まる。ほんとうであろうか

エドガール・モラン


エドガール・モラン
エドガール・モラン(Edgar Morin、本名Edgar Nahoum、1921年7月8日 パリ - )は、フランスの哲学者、社会学者である。ユダヤ系スペイン人(セファルディム)の出身である。その仕事は諸学問の境界を横断する超領域性で知られている。また、文化人類学者ジャン・ルーシュと共同監督した『ある夏の記録』(1961年)によって、ヌーヴェルヴァーグの映画監督としても知られる。



目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 哲学的発展
3 リテラリー・ワーク 3.1 書籍
3.2 会議

4 関連事項
5 註
6 外部リンク


来歴・人物[編集]

1921年7月8日、フランス・パリで生まれる。読書や映画、航空、サイクリングなどをたのしむ少年であった。哲学における仕事は、17世紀を多様な視点から描き出す研究から始まった。

人民戦線とスペイン内戦中のスペイン共和政府との関係で社会主義に関係するようになった。1940年にドイツがフランスを侵略したとき、モランはトゥールーズへ逃れた。当地でマルクス主義的社会主義にコミットし、難民を助ける仕事に従事した。レジスタンス運動に参加し、1941年にフランス共産党に加わったが、そのとき党はゲシュタポに迫害されていた。1944年8月の「パリの解放」に参加。翌年、ヴィオレット・シャプロボーと結婚し、ランダウに住んだ。そこでは、ドイツにおけるフランス占領軍の中尉をつとめた。

1946年、パリに戻り、軍人としてのキャリアを捨て、共産党との活動を追求した。そのクリティカルな姿勢のために、党との関係は次第に脱領域化し、『フランス・オプセルヴァトゥール』(現Le Nouvel Observateur)誌にある記事を書いたのち、1951年には党を除名された。同年、数人の知識人の推薦によって、国立科学研究センター(CNRS)に入った。

同センターに加わり、モランは、映画領域における社会人類学の分野に入り、シュルレアリスムを探求したが、依然、社会主義を捨てはしなかった。フランコ・フォルティーニ、ロベルト・グイドゥッチ、ヘルベルト・マルクーゼらの哲学者たちと理想をともにした。雑誌『Arguments』を創刊、編集発行した(1954年 - 1962年)。同時期、アルジェリア戦争へのフランスの関与に対して抗議活動を行った。1959年、書籍『自己批評 - スターリニズムと知識人』が出版された。

1960年、ラテンアメリカ諸国を広範囲に旅をし、ブラジル、チリ、ボリヴィア、ペルー、メキシコを訪問した。土着文化およびアフリカ系ブラジル人に強烈な印象を受けた。フランスに戻り、『時代精神I 大衆文化の社会学』を出版した。またこの年、映画『ある夏の記録』をジャン・ルーシュとの共同監督作品として発表、『カイエ・デュ・シネマ』誌で絶賛される。のちに1965年、ヴェネツィア国際映画祭の審査員をつとめ、同年公開のアンリ・カレフ監督の劇映画『真実の時間 L'Heure de la vérité』の脚本を同監督と共同執筆した。

1965年初頭、モランは、プロゼヴェにある科学技術研究代表派遣団(DGRST)の出資による巨大な多領域的プロジェクトにかかわり始める。プーランの素朴なキャビンで暮らす間、1965年の一年を共同研究者とともに調査に費やした。2年後、調査結果が発表されたとき、彼の仕事の超領域性によって、DGRSTはモランに異端のレッテルを貼った。この事件は、パリの学術世界への嫌悪を増大させ、パリの外側での仕事にさらに多くの時間を費やすこととなった。

1968年、アンリ・ルフェーブルに代わり、パリ第10大学ナンテールに赴任した。フランス国内で起こりはじめた学生の反乱に関与し始めた。 1968年5月、ルモンド紙に一連の記事を書き、「学生コミューン」とモランが呼ぶものを理解しようと努めた。五月革命を密接に追いかけ、ルモンド紙に、『顔のない革命』と呼ばれる第二弾の一連の記事を書いた。また、コルネリュウス・カストリアディス、クロード・ルフォールとともに『学生コミューン』を共同執筆した。

1969年、カリフォルニア州サンディエゴのラホヤにあるソーク研究所で一年を過ごした。 同研究所にいる間に、DNAの発見にはじまる遺伝学革命に親しみ、そのことが、サイバネティックスや情報理論、一般システム理論についての彼の意見形成に貢献した。

1983年、『ソ連の本質 - 全体主義的複合体と新たな帝国』を出版、同書はソヴィエト共産主義への彼の分析を深めたもので、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカを予想したものであった。

1991年、ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィル、ジェーン・バーキン、シャンタル・アケルマン、ルネ・アリオ、ジャック・ドワイヨン、ロマン・グーピル、ロバート・クレイマー、パトリス・ルコント、ミシェル・ピコリ、アラン・レネ、コスタ=ガヴラスら33人の映画監督が競作するオムニバス映画『忘却に抗って』のアラン・コルノー監督篇『Ali Muhammad al-Qajiji, Lybie』に主演する。

2002年、「コレジアム・インターナショナル」の創設に参加した。

哲学的発展[編集]

モランの認識論的仕事は、「複雑性」と呼ぶ「イデオロギー、政治、科学」の三角関係の再考を試みたことを理由に「革命的」と見ることができる。「複雑」は単純の反対としてではなく「方法」としてここに存在し、その方法とは、「単純とはただ、いつも、単純化されたなにかだ」ということを知ることで宇宙の「謎を尊重する」。この巨大な尽力は、全6巻にわたるモランの主著『方法』に見出すことができるが、これは、たんに科学的なプロジェクトではなく、20世紀の心臓部からの複雑なメッセージでもある。

アルフォンソ・モントゥオリ(『Edgar Morin: A partial introduction』[1])によれば、
5巻の『方法』はおそらく、モランの達成した仕事であり、目覚しくかつ一見無尽蔵な宝物であり、洞察、内省とリアルなマニュアルの発掘物であり、人類の疑問の性質を拡張することに興味がある者のためのものである。サイバネティックスや情報理論、システム理論を引いているが、モランが従来行ってきた仕事を融合し、映画についての研究におけるイマジネーションに基づいた仕事から、死についての深い内省へと、『方法』はモランの旅を融合し、伝統的なみせかけと現代の疑問の方法へのオルタナティヴを読者に供給する。
ということである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%B3
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