民数記が終わった!「親子の間、夫婦の間、兄弟の間において一体、私たちは何を第一にしているであろうか。・・・いつも神が第一である、そういう日々の歩みでありたい。」榎本保郎(一日一章、民数記36章より)で、祈りの課題は夏期学校と兄とその家族のこと
ついでに写真も見ていると、蝉の羽化が写っている。一度にたくさんの蝉が羽化しているのを簡単に見つけられたことを思い出す。今年は、全然見かけない。去年が異常だったのか、今年が異常なのか?
今朝の道しるべを読んで、珍しいことに、去年も読んだのを覚えていた。「神の力を信じられないとき、人は余計なことをして、関係を壊す」と。今年もここに、はっとさせられ、励まされ、正される。
今日の礼拝は、今日の私のために準備してくださった、まさに神さまからの語りかけだった。加えて与えてくださった神を横に置き、その加えて与えられたものを頼りにするようになる、と。多くの実りの中に、本当の実りが埋もれて、いつの間にか見失う。そうか、
「見通しの効く道を歩ませていただけたら、どんなに嬉しいことでしょう。しかし、神はそんな道を備えてくださいません。ただ今日一日、目の前の一歩を備えてくださる。神が開いてくださる一歩一歩を踏みしめて、命に向かうのです。一気に駆け抜ける、というわ
主を仰ぎ見るのは助けを求めるためであります。彼が何をしたというわけではありません。何もできないから、神を仰ぎ続けてきた、ただそれだけであります。不思議なことです。人はそんなふうにして輝くのです。(朝の道しるべより)
なにからご報告すればいいか整理もついておりませんが、留守中の事務的な?物理的な?整理をとりあえず優先しております。これだから、旅行はいやだぁ〜。
「飼い主のいない羊のような人々を深く憐れんで」マタイによる福音書9章36節・マルコによる福音書6章34節・・黙想の末に。我が家の?ツバメたち。
今日、本屋に立ち寄る機会があって、又吉さん(もちろん知り合いではない)の「火花」を手にとった。結構大きな本屋さんなのに、芥川賞を取った本にしては、派手な売り出しもなく、ひっそりとおかれていた。こちらの思いこみに反して、厚さのないすぐ読めそう
愚かな知恵に頼らず、誘いの声に耳を傾けず、小さき御声に聞き従う静かな心を与えたまえ。讃美歌313と讃美歌338の合作。
羊飼いの鞭と杖は狼などの襲撃から羊を守るためのものであります。そういう意味で羊にとっては心強い。しかしそれだけではありません。もっとしばしば羊を打ち叩くために使われるのであります。羊が危険に近づいたり、迷い出て群れから離れるとき、羊の背を打
エレミヤ書。無用の水溜。わたしは癒やす。はらわたよ、はらわたよ。ぼけた写真でごめんなさい。これをイチゴミルクとはよく言ったものだぁ〜。
今、詩編が続いている。とても心強い。今朝のは、貧しい者の祈りを聞かれる、という詩編から。強い者の祈りは聞かれないのか。いや、強い者は(自分の力を頼りにして)祈らないのだ、と。確かに、決して強い者ではないけれど、何とかできている(と思っている
実家にインコがやってきた。知り合いの人が引っ越すので、譲り受けて世話をすることになったらしいが、特に名前はないという。どこかの小説ではないけれど、「我が輩はインコである」、という感じ?で、それからずっと考え続けているんだけれど、やっぱり名前
小泉八雲が、子ども時代から、こんなに大変な状況の中にあった人だったとは。アサガオがあちこちで蔓を伸ばし始めているのが目につきます。
約束の地を与えられる、のではなく、戦いとらねばならない。そして何も残さず一掃しろ、と。「私たちの心も、信仰の世界がどこからか降ってくると思ってはならない。自分の中の本来あるべきでないもの(創造されたときにはなかったもの)を排除する戦いをして