文部省唱歌に携わった東京音大の先生方の半分以上が、キリスト教ゆかりの人々で、六四調は、賛美歌の影響だと。ふるさと、みたいに。日本は七五調(五七調)が、馴染みだもんね。アオサギ。デカイ。キレイ。水面に映った姿も。
私の、小さな録画世界では、一番工夫していたのは、らららクラシック。他のリモートも充分楽しかった。で、一番イヤだったのは、クイズ脳ベルショー。見るのも止めていたけど、とうとう、今週からリベンジのよう。これも、マスクの必需品。小さな糸くずを拾っ
手を振りほどこうとするお母さんに、泣きじゃくってすがりつく、ような子どものうた。絶対庇護者を求める気持ち。人は、いつの間にか何でも自分で出来るように驕り、その心を失ってしまう、とは、雨宮先生の言葉だったか。久々のネジバナ。
3ヶ月と3週間ぶりに、教会学校が再開された。いつもの時間ではないけど、夕拝みたいで、それも良かった。昨日に続き、ルドベキア。
コロナの間の「主の祈り」といえば、いつもの祈り慣れた「主の祈り」ではなく、日本聖公会と、ローマ・カトリック教会の共通口語訳の「主の祈り」で祈り続けたので、すっかり覚えることができた、という副産物。還暦の快挙。
コロナになって、教会学校の子どもたちと「主の祈り」を祈り合おうと決めたけど、私には得るものが大いにあった。虚しい思いに囚われるとき、絶望に似た思いがよぎる時、「主の祈り」を祈ると、自分の中への思いから、横の世界への思いから、すっと神様の方に
まず、「ワイルドライフ」を見た。ニュージーランドの半島での、ペンギンを地域挙げて保護し見守っていた。次に、「世界歩き」を見た。その町も、さっきとは違うけれど、ニュージーランドだった。その町の観光客は、夜、海から上がってくるペンギンを、楽しみ
お父さんが、宝くじ?に当たってあの世から帰ってくるという回があった。お父さんの姿が見えない主人公がお父さんに手を合わせるシーンに違和感を感じた。そう、もちろん仏壇がないのだ。次に実家のお父さんの写真を飾ってある机の上には、ロザリオ的な大きな
「劇場の偶像」歴史のその時代に従う思想の枠組みからくる間違い。全真実を人は掴めるものではなく、どれほどの発見をしようと、神にまさるものではないと気づくことが急務である。
「市場の偶像」お互いの言葉を理解しない事実から起こってくる誤り。言葉は市場の通貨。誤解があるってことかしら。私はしょっちゅう。慌てもんだから。失敗ばかり。
「洞窟の偶像」我々自身の個性や癖を、一般常識にすりかえてしまうことから起こる。洞窟とは、自己の洞窟。このネーミングはぎりぎりわかる。
「種族の偶像」自分たちが、創造主ではなくて、被造物であることを忘れてしまうこと。自分は神よりもよく知っていると考えて、神の指導をもとめず、受け入れることもしない時、この偶像の犠牲になっている、と。
近所では皆さんも、不作だとおっしゃるけれど、我が家の梅は、花が咲きもしなかった。実らないのは当たり前。実を取るのが私の役目になって以来、こんなに実らないのは、初めてのこと。
私が思うに、リモート収録も変化があって結構楽しい。よりすぐり編は、ただの再放送でなく、編集し直して放送してくれていて、ラッキー。さらに本当に好きなジャンルのものは、単なる繰り返しでも復習できてラッキー。ただ、クイズ番組の再放送は、ちょっと無
一冊の本を借りてきた。何冊も読める時間があるだろうと思ってた。イースターからペンテコステまで。でも、結局読んだのはその最初の一冊だけ。理由はいろいろあるけれど、何といってもタイムリーな、豊かな本だった。
コピーロボットではないが、まるで、分身のように用事を言いつける。気持ちはわからないではないけど、分身ではないので、説明してもらわないとわからない。このゼラニウムこそ、分身の術かも。