ポイント導入に釣られて、思わず買ってしまったスーパーのカゴ。結構使いづらくて、結局エコバッグばかり使っていたけど、このコロナ下のスーパーでは、サッカー台に並ばなくていいし、滞在時間も超短縮できると、愛用中。
コロナ関係で、ニュースで流れる、感動する胸熱くなる人間愛の話と、呆れ果てる詐欺や盗難の話と。家族が、「両極端やなあ、どっちかしかおれへんのんか」と言うので、すかさず私は言ってやりました。何もせず、テレビの前で座ってうだうだ言っているだけのが
主の祈りを祈る。今更ながらに、祈りのことばの不足のなさ、加えて、我ら、私たち、と祈れる慰め。それ以上にイエスさまが先頭で祈っていてくださる安心。
早速、見たら、聞き手が、百分で名著でおなじみの若松英輔さんだったので驚いた。だけど、いつもは語り手なので、聞き手としては、喋り過ぎかな、なんて思った。
今月から第三日曜日に、小友聡先生の「コヘレト」が、教育テレビの「心の時代」で始まるらしい。これも、何年か前、「信徒の友」で連載があつた。楽しみ〜
信徒の友で、無料アプリの聴くドラマ聖書とかいうのが紹介されていたのを残しておいた。スマホになった今や、ダウンロードしてみたら、なかなか利用価値がある。大和田伸也やつるの剛士などの朗読で聖書全巻新改訳。聴くのもだけど読むのにもいい。
生まれた時は体長数ミリ、30匹も。大きくなるのはその中の4匹ほど。ある時、原因不明の病気が、彼らにだけ流行って、半数が死んでしまったことがあったらしい。みんないろいろあるんだなあ〜
新しいシーズンが始まった。朝ドラのエールも頑張ってる。何より復活のイエスさまが、こんな私のこんな小さな頑張りに共にいてエールを送ってくださる。
人間の難局をよそに、季節通りにやってきて、いつもの場所で子育て。花や木々も。動物に感染せず植物に感染しない。それだけでもありがたいなあと思った。
今朝の目覚めは、婦人たちが墓に走った頃だった。「御神の使いは 空より下りて きみに侍りつつ みちからをそえぬ。」
そんな中、宮清めの月曜日と論争の火曜日。それは今も。人間の限界を知ることから。神の超越性を知ることから。イースターの準備。
棕櫚の主日。とうとうエルサレムへ。死に場所は、美しいガリラヤ湖でもなく、懐かしいナザレでもなく、温かなベタニアの村でもなく、反逆の町へ。私たちのただ中へ。
「霊を御手にゆだねます。」御心通りこの身になりますように、で始まり、御心ままに、で終わるイエスさまの地上の任務。今日から受難週。これは福島駅の古関さんの銅像。朝ドラのモデル。5年前。
「わたしは渇く」ヨハネだけが記録する。ヨハネの4章14節で、サマリアの女に、7章37節で、エルサレムの街頭で、わたしが与える水を飲むものは渇かない、と言われた方が、私達が真の渇きに気づくようになるために。
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」これは、マタイとマルコが書き記す。ただ一人捨てられる理由のないお方。