mixiユーザー(id:34563293)

2021年08月25日22:38

190 view

「平等」だから「正しい」とは限らない

本題とはちと離れるけれど。

差別なく平等、公平を期すならば、健常者も障害者も男性も女性も一律に同じルールも元で競うべきである。
結果的に健常な男性しか活躍できなくなるが平等の結果だから仕方ない。

平等を第一義に掲げるとこうなる、これが正しいかどうかは論が別れるだろう、というかどの「正しさ」を基準にするかで正解は変わるというべきか。

平等な競技を求めるならば前述のものは正しい。

様々な人に活躍の場を提供するのが目的ならば健常者、障害者、男性、女性を差別して競技するのは正しい。

興行ならば盛り上がって儲かるのが正しい。

つまるところ求める正しさに対して公平性の重要度はころころ変わってしまうわけだ。

で、本題である障害者スポーツのクラス分けに立ち返って見る。

そもそも障害者のクラス分けの基準というのは宇宙の法則でもなければ神仏の様な超常の絶対者から与えられた命題でもなく、関係者各位が検討して定めたものである。
人が決めたものである以上そこに絶対は無いわけだから、クラス分けの公平性にも絶対はなくその公平性は有限だと言える。
要するに、同じクラス内でも障害が軽い方が有利、重い方が不利という不公平が存在する。

が、それが競技のルールである以上従うしかない、当然ルールで認められる範囲内の不服申し立てはけっこうだが、申し立てが通らなければ諦めて従うか競技をやめるかしかない。

結局のところルールこそが唯一正しいのだ。



■パラ、競技の公平性はどう担保? 直前のクラス変更に困惑する選手
(朝日新聞デジタル - 08月25日 21:07)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6642737
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する