裏地に凝るのが日本的なお洒落。外見が派手な世界のヤンキー文化とは対照的。この裏地文化を通してみると、日本的自我というものの特徴が見えてくる? 日本人のウラとオモテ https://note.com/telemachus/n/nd64e5571b295
わけもわからず人は泣くことがある。しかし泣く以上は何かを想って泣いているはず。理性だけではなく感情も総動員して何かを直観的に掴んでいる。すべての理屈はそれからだ。 わけもなく泣くという経験 https://note.com/telemachus/n/n38f647ac349a
日本人でなければ日本文化の「深み」を知ることはできない。そう信じてた人にとってはルース・ベネディクトの『菊と刀』は衝撃であった。だが日本を知らない人類学者がなぜ日本人をそこまで解剖できたのか。 『菊と刀』とアンソロポロジー(人類学者に日本人
政治的民主化は「エリート」と「民衆」の区別を完全には撤廃しなかった。そして今またエリート主義的な考えが復権しつつある。ぼくらはまだ民主的な文化を知らない。何が足らんのか。日常という巨象https://note.com/telemachus/n/ne024bb1e3674
最近の学生は「法は守るべき」に止まって、「なぜそんな法があるのか」とか「法とは何か」まで考える人は少ない。どこかの大学の先生がそうツイートしてた。自分は前からこれに気づいていたが、古くて新しい問題なのだと最近思うようになった。 怨まれて怖い
ムスリムというと日本人には遠い存在のように感じられるが、自分が知り合ったムスリムたちは、やはり自分たちと同じような希望や悩みを抱える人たちであった。どこかでみた風景https://note.com/telemachus/n/nd51c1a0c3022
私は私のままでいい。他人の期待に応えようとしなくていい。それが自由であること。常にそう自分に言い聞かせないとならないほど、ぼくらは自分をそのままにしておけない。 プロメテウスのワキガ(「私」を何かから解放するということ)https://note.com/tele
ちょっと前に話題になったけど、欧米文化圏には銅像文化がある。他人が真似できないようなことをした人の銅像を建てて顕彰する。あるとき「日本でいちばん有名な銅像は何?」と問われて返答に詰まった。 ハチなボクたち(義理を忘れたぼくらがまだ感じてる義
保守派なのにリベラル社会を擁護する矛盾が矛盾でない理由。私の保守主義https://note.com/telemachus/n/nbb3d57a22ad3
古代ギリシャでは公私の区別というのは社会制度に対応していた。現代社会では公の私化、私の公化が共に進んでこの区別が曖昧。私人と市民は混じり合って消費者になった。政治においてさえ。公衆便所の壁としてのネット空間 https://note.com/telemachus/n/nfc
前にヘーゲルとハイチをつなぐ「と」についた書かれた本を紹介したが、今回はガンジーと日本人をつなぐ「と」。そんな「と」が「自虐史観」でも「自慰史観」でもない深い反省を促す歴史を開示してくれると自分は思ってる。ガンジーと日本人(ガラパゴス化され
ドラマ見て自分を振り返る。最近またこんな経験をした人が多いみたい。政治はドラマであり、ドラマが政治である。マルクス主義にもまたこの古い因縁が見出せる。政治とドラマ(三たびマルクス主義について)https://note.com/telemachus/n/n104a883ce0f2
どこの社会でも変化を好まない保守派が多数を占めるのに、それでも世の中は勝手に変わっていく。それで時代に取り残される者の悲哀がある種の普遍性を帯びる。実のない会話https://note.com/telemachus/n/nd2ed9dc745d0