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2021年09月09日11:19

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日本人の色彩感覚(古い日記から)

先日、吉本隆明の『南島論』を読んでいたら、日本人の色彩感覚について触れられていた。自分もこれがずっと気になっていたので期待したのだが、吉本も調べ切れてないらしい。誰か調べた人がいたらぜひご教示願いたいということで、青臭い文章で恐縮だが自分の古い日記をここに掲げておく。

古い日本語には、色をあらわす固有の言葉が少なかったようだ。

そう言われると、「あかい」「あおい」「しろい」「くろい」は形容詞があるけど、「きいろい」「ちゃいろい」は「黄色」とか「茶色」という名詞に無理に「い」をくっ付けたようで、本来は「黄色の」「茶色の」が正しいような気がする。「紫色い」じゃなくて「紫色の」だし。それに「灰色の」「肌色の」なんていうのはちょっと不細工で、「グレーの」「ベージュの」って言った方が早い。

でも、色そのものを指し示す言葉が少なかったということは、色を表現する言葉が少なかったということではない。「源氏物語」のような古文を読むと、着物の色彩とかが事細かに書かれている。でも、「あかい」、「あおい」、「きいろい」なんて言う現代の色彩用語じゃなくて、「藤色」とか「茜色」とか具体的な物の色を連想させる形で表現されている(もっと面白いのもたくさんあるのだけど、忘れた)。「緑色」「茶色」「灰色」「肌色」「金色」「銀色」「鼠色」なんていうのも起源は具体的なモノだ。

つまり、抽象的な色彩(赤、青、白、黒等)ではなく自然界に存在するモノとの類推で色を表現していた。そのおかげで、中世文学だけじゃなくて、明治初期生まれの文人くらいまでは色に関する語彙が我々と比べて格段に豊富だ。

それにしても、「藍色」「藤色」「茜色」だったらまだ現代でもなんとか通じるけど、今の人にはピンとこないものも多くて、どんな色なのか想像できない(「利休鼠色」ってどんな色?)。具体的な事物を色の名前に使っていたから、そうした事物が日常から姿を消すと、どんな色なのかわからなくなってしまう。

多分、今日われわれが国語などで習う「色」をあらわす言葉というものは、西洋起源のものを訳したものである。実際、初級会話でならう色の種類は英語でもフランス語でもドイツ語でもスペイン語でもみな同じだ。

いつから西洋人がこのような色彩感覚を身につけたのかわからないけど、考えてみると自然界にある様々な色を抽象・分類し、体系化するところがいかにも西洋っぽい。表象ではなくてその下にある「本質」を重んじる伝統だと思う。表象が変わっても本質はいつまでたっても変わらない。言ってみれば、多様な自然の根底にある秩序を求める一神教につながる考え方だ……

日本人の色彩感覚(古い日記から)
https://note.com/telemachus/n/nd6db53e89957
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