書くひとだけが感じることのできるジレンマがある?
保険局職員として働きながら創作活動を続けたカフカ(1883-1924)にとって、「何のために書いてるか」という問いは常に頭のどこかにあったんじゃないかと思う。なんとなれば、自分などの経験に照らすと、それが決まらないと何を書くべきかがわからなくなってくる。
カフカの生前に公表されたものは若干の短編であって、有名な長編を含む多くはかれの死後に、彼の意志に反して、友人によって公刊された。長編はすべて未完であった。かれ自身は、自分の作品を公表に値するとは考えていなかったらしい。自分の死後には原稿をすべて燃やしてくれるように言い残して死んだ。
であるから、かれが飯の種として書いていたのではないことは、確かなようである。食うために書くのではない。結果として食えればよいけれども、それ自体が書くことの目的ではない。だから、みんなが読みたがるもの、売れるものを書こうとしていたのではない。じゃあ、何を書いていたのか・・・・・
なにが人に書くことを促すのか、なにが書くことを躊躇させるか(カフカ『彼』を読んで)|てれまこし
https://note.com/telemachus/n/n9f52b70c1808
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