アーレントの『カント政治哲学の講義』を読んで考えたこと。
自分や他人の趣味の良し悪しを云々できるか。あいつは趣味がいいとか、お前は悪趣味だ、というときの根拠は何か。
今日では、こんな問いを口にすること自体が不寛容に感じられる。音楽や食べ物や服飾などの自分の好みについて、ひとからとやかく言われることほど苛立たしいこともない。ましてや他人の好みを押しつけられるのは我慢がならない。
であるから、「人それぞれ」でいいじゃんという寛容が今どきのポリチカリー・コレクト(?)な姿勢であるかと思う。しかし、どうも問題はそこに止まらないんである。
趣味(テイスト)という言葉は、「味」「味覚」から来ている。味覚や嗅覚は理性や悟性ではなく感情に働きかける。だから反省を受けつけない。思う前に感じる。考える前に体が反応している。だから、嫌いな食べ物を説得によって美味しく感じさせることはできない。シイタケ嫌いの私に、シイタケをうまいと感じさせる言葉などない。
美醜を見分ける美的判断もまたこれに近いところがあって、だから「テイスト」が趣味を意味するようになった。なぜとこの絵が好きか言われても、好きだから好き、嫌いだから嫌いとしか言いようがない。
美的判断というのは、自分にも見通せず、ゆえに他人にも伝達できない自分の最内奥から生じるもので、最も純粋に私的なものであるように見える。趣味判断の確固とした根拠はこの闇の中に隠れていて、取り出してくることができない。だから趣味は反省の対象にならない・・・
「お前って趣味悪いよな」という資格|てれまこし
https://note.com/telemachus/n/n12d658ff6f40
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