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2019年09月18日18:16

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自我が生むエネルギー

前回日記の補足。

自我形成によって解放される「人間的エネルギー」。このことばは安丸良夫の本からとったのだが、特に定義は出ていない。形而上学的な実体を期待されるとまずいのであるが、他にうまい表現の仕方が思い浮かばんので、借用させてもらった。

このことばで言わんとすることは次のことである。自我を持つのと反対の状態は、与えられるものを宿命として受け入れること。世界なり世の中というのはこういうものであり、これ以上どうしようもないと諦めている状態である(諦めている以上、諦める自我があるはずだが)。そう思えば、いろいろな意味で楽になる。無力感とか無責任から生じる恥を忘れることができる。

当然、このままでも世の中そう悪いところじゃないやと思う人ほど、宿命論を受け入れやすい。でも、とてもそんな風には思えない境遇にある人もいる。そういう不都合な存在に対しては「自分のことを人のせいにするな」という言葉が投げかけられるから、宿命論はその反対物でありそうな自己責任論ともつながって、強力な現状維持イデオロギーの哲学たりうる。

自我とは、まず受動的存在の自然と区別される能動的主体のことである。定義上宿命論とも自然主義とも衝突する。法律や文化的規範だろうが自然法則だろうが、それに従うだけの生を否定して、「意志」の力を尊重するのである。

そういう人間は、既存の秩序をそのままでは受け入れない。必ずしも反社会的になるとはかぎらんが、受け入れるにしても自分の意志で受け入れないと気がすまない。だから、ただここにあるというだけで当然視せずに、それを批判的に吟味し、要すればどしどしと変革していくことを厭わない。

こんな人たちが増えれば、既成秩序に対する挑戦は増える。まあこのままでも悪くないやと思っている人たちには迷惑な話だが、文化の再生産がスムーズにいかず、社会統合が脅かされる。要するに世界を動かす力が生じる。こんな力の源泉を「人間的エネルギー」(物理学的エネルギーと区別するという意味で「人間的」)と呼んだのである。

だから、自分が言う現状維持派と現状批判派は右翼・左翼とか保守・革新とかいったイデオロギー的区別とはちがう。その一歩手前にある無意識の心性のようなものである。既成の秩序が保守的であるか革新的かによって、現状批判派も「右翼」「保守」になりうるし、現状肯定派が「左翼」「リベラル・革新」たりうる。今の改憲議論などを見ればよく解るし、本田宗一郎とか堀井貴文のような起業家たちを考えてもよい。現代史がしっかり教えられない日本では勘違いする人ばかりが増えたが、戦前の右翼は左翼に負けないくらいの現状批判派である。左翼から右翼に転向するよりも、現状批判派から現状肯定派に転向する方がよほどむずかしい。

自分は現状維持派が常に間違っていると言いたいのでもない。カール・マンハイムが「conservative thinking 保守的思考」(「保守主義的思考」と訳すのは誤訳であると思う)と呼ぶものは、人間が生きていく上でも、社会の安定のためにも必要不可欠のものであると思う。柳田国男の保守もこの種の保守である。あるものをあるものとして受け入れられない現状批判派がこの保守的思考にチェックされないと、やはり恐ろしく不寛容な人間や社会ができる。
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