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2019年08月26日23:09

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一人ぼっちかその他大勢かという選択

近代的自我というものは、自分というものどんどんと切り詰めて行って、最後には自分の外にある環境だけではなく、自己そのものを統御・支配の対象としてしまう。文化的偏見だけではなく自然な欲望でさえ自我の外に追い出してしまう。

最後に残るのは、チャールズ・テイラーが「点的自我」と呼ぶようなものである。それはもはや性別もなく、どんな民族や集団にも属さず、宗教ももたず、社会的階級や身分ももたない。合理的理性と呼ばれるものであり、ある論理体系によって制御された一種の統御機能のようなもの、何も学んでいない段階の人工知能のようなものである。

問題は、そんな社会から隔離された「自我」が本当に存在しえるのかということである。男であること、女であること、日本人であること、中産階級であること、特定の宗教を奉ずる家庭で育ったこと、といった諸々の属性から完全に「自我」を隔離することが可能なのであるか。

いわゆる近代合理主義者は、自分たちこそがそうした自我であると主張するのであるが、よく調べてみると彼らの意識自体がそうした属性によって規定されているところが大きい。近代的自我とは元来「世俗化した新教徒」、「ブルジョア階級」、「男性」の意識であったといっても、それほど間違っていない。今日だって、やたらに「客観的」なんて言葉を振り廻す連中に限って、遼東の豕であることが多いのは、ネットにたむろする自称論客君たちを見ていればすぐにわかる。

だから、今日においては、環境から孤絶した自我など存在しないというのが定説となっている。だが、今度は逆に、自我なんていうのは特殊な社会環境の反映である意識に偽の客観性をかぶせたものにすぎんという見方に傾く者も出てくる。我々は徹頭徹尾社会の産物であって、何を考えるにしても男か女、ブルジョアか労働者、日本人か中国人、キリスト教徒か神道信者という枠からはみ出すことができない。こちらの見方も極論であって、こうした枠組みが自己を完全に包摂することはなかったであろうし、近代社会においてはますます難しくなっていると思われる。

そうすると、問題は自分に自我があるかないかということではない。前回の日記で論じたように、誰でも自我と呼べるようなものをもっているが、同時にその自我は自分が置かれた環境に対して開かれ、浸透されている。そこに無理して完全に孤立した自我を想定してみたり、または自我を消去しようとしたりすると瞞着が生じる。自分自身が完全に自立していると思い込んだり、逆に他者と自分が完全に融合しうるという錯覚に陥ったりする。

伊藤計劃の『ハーモニー』では、近代的管理社会かゲマインシャフト共同体か、健康ファシズムか「わたし」の放棄か、という究極の選択という形で物語が進むが、実はそこにはなんの選択もない。管理社会の健康ファシズムがその論理を貫徹すると「わたし」が否定される全体主義社会となる。ゲゼルシャフトの合理主義が行きつくところまで行くと、ウロボロスのようにそのしっぽのところでゲマインシャフトと融合する。伊藤氏のホンネも、どちらも同じ穴の狢だというところにあるんじゃないかと思うが、そうだとすると、そこにはやはり「わたし」に対するこだわりがある。

では、伊藤氏のテロリストが影響されたというフーコーはどうであるか。彼は表だっては共同体回帰論者ではない。しかし、彼が革命直後のイランを訪問した際に書いたものなどを読むと、ゲマインシャフト的連帯の理想に弱みがあったような節もある。彼は『ハーモニー』のテロリストを自分の弟子とは決して認めないであろうが、そういう誤読を許す余地がなかったかというと、少し心もとない。

そもそも、自我や主体性を観念論だとして一切否定してしまったら、管理社会や全体主義的傾向に対する抵抗には何の意味が残るのだろう。フーコー自身はこの問いに答えないまま死んでしまったのであるが、やはり何らかの「自我」へのこだわりがあったはずではないか。そうでなければ、フーコーは自分をやっていることを自分の理論自体によって否定するという矛盾を犯していることにならないか。

フーコーの誤り(というより彼のエピゴーネンたちの誤りなのかもしれないが)は、「近代」というものを底から支える一枚岩で矛盾のないようなものに還元しようとしたところにあるように思われる。自分には、「近代」そのものが互いに矛盾する地殻プレートがせめぎ合う場として考えた方が自然であるように思える。そこには確かに矛盾があるのであって、近代的自我は個人の解放にもつながり、また支配の手段として利用されうる。

そういうわけで、自分は自我は不可避的に近代的管理手段となるとは考えないし、本質的に西洋的なものであり日本人には可能でもないし望ましくもないという考えも極論だと思っている。そもそも、これを受け入れてしまったら、とても他人の教育などには携わってはいられない。自立した人間を育てるのでなければ、教えなくともよいことがたくさありすぎる(近年は教育改革の名をもって、そんなことはもう教えなくともよろしいということになりつつあるんだが)。

現実に生きていくうえで、我々の自我は他者との関係によって形づくられていく。以前の日記で論じたように、愛情とか友情にもとづく関係や師弟関係も、自我のようなものを想定しないと理解できない。こうした関係においては、自我というもの自体が他者なしでは規定され得ないし、また自我なしに他者もありえない。そうなると、完全に没我的なゲマインシャフトなどというものが果たしてありえたのかどうか、自分にはちょっと想像ができない。

あの夫なりすまし事件にしても、それが事件になったのは、そこには何か正しくないと感じられるものがあったからで、ただ誰かが嘘をついてけしからんというだけの話ではない。夫婦が互いにとっかえのきく部品であるなどとは想像さえできなくなったのは近代かもしれないが、それ以前だって部品でいいじゃないかと言い切る人は多くはなかったと思う。近代社会においてはそうした関係が比重を増やしたところまでは言えるが、そうではない関係が全く無意味になったとは言えない。

個人主義の人望が衰えたのに対して、最近は集団主義的な決まり文句が大手を振って歩き廻っている。自我をもたない状態、自他の区別がなるべく無意味になった状態が人間としてより自然なあり方である、というのが集団主義の背後にある暗黙の人間観である。個人主義とは利己主義であり、元来社会的動物である人間の本性とは相容れない不自然なものであるという見方である。この利己的な個人主義の否定として、近代化した集団主義として全体主義が現れる。この通俗的な個人主義との対比で、全体主義は利他主義的なもの、仁愛の理想に近いものとして見られやすい。

しかし、「われわれ」を「わたし」に優先させることは利他主義であるとは限らない。「われわれ」もまた第一人称なのであって、「われわれ」を優先させることもまた集団的な利己主義たりうる。問題が、誰がこの「われわれ」に含まれるかという問いに移されただけだ。それを民族とかジェンダーなどの区別をとっぱらった「人類」という類に外延的に拡大したからといって、普遍的になるわけではない。「人類」に内包される個別性に全体との調和という留保の付くかぎり、個は全体に従属させられるのである。反省の足らない利己主義者であるという点では、「愛国的」排外主義者も軽薄な世界主義者も大差はない。

近代的自我も、それが「人類」の普遍的な定型として考えられたときに、多様性への不寛容や全体主義へと導かれる。フーコーの近代批判はこの意味では正しい。先生や社長などに「主体的に行動せよ」と言われるときの主体性などは、無意識のうちに承認されたフーコー理論であって、「期待されている役割を忖度して、言われる前にやれ」という意味であることはすでに述べた。しかし、これとは違った意味で、自分の属する特殊な集団内での立場を超えてより普遍的なものを求めようという努力はありうるし、それは近代の中でも完全に意味を失ってはいないはずだ。
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