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2019年08月24日11:20

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神なしでどこまで行けるか

イランの作家ジャラール・アーレ・アフマドの『地の呪い』(山田稔訳)という小説にこんな場面があった。ある小村に赴任した師範学校出の教師。上からの近代化が強行されている時代で、村でも伝統的共同体を犠牲にしながら狡い奴ばかりがうまいことやっている。だが、百姓たちは伝統にしがみつくばかりで主体的にものを考えることができない。上から目線で百姓に「文明化しろ」と号令を下す政府関係者に反発しながらも、教師もやはりこう言わざるを得ない。

「まずあんた自身が何を欲し、何を言いたいのかを確かめることだ。百姓たちが何を欲しているかもね。敵はどこにでも好きなように入り込んで来るんだ。」

これに対して一百姓頭はこう答える。

「先生様よ、おめえさんに何がわかろう?わしらはこの土地がどんなに苛酷で、この空がどんなに高いかを知ってるだ。けんど、おめえさんはほんの数日の客にすぎん、この荒野の片隅で、どんな災厄がわしらにふりかかってくるのかちっともご存知ねえだ。⋯⋯」

生きるということは、自分に与えられた境遇を受け容れ耐えることでもある。「覇気が足らん。そんなことだからいつまで君たちは自由になれんのだ」などと上から目線ではっぱをかけられたところで、それこそ余計に自信を失って絶望するだけだ。あの先生から質問をされた大学生のように、百姓たちもまた都市知識人から注目されるのを迷惑に思っている。これ以上余計な責任を負わされないよう神経質になっている。

土地に頼って生きざるをえない百姓ではなくなっても、人間はそう自由にならんかったらしい。だから、都市文明に生まれ育った人々からも同じような声が聞こえる。「自我とか主体性じゃ食っていけめえよ、先生」。そのいやがる人びとを上から「教育」して自由にしようというのが啓蒙家や教育者が自らに課した役割である。だが、その「教育」とは、結局都市文明に参入して生きのびるために必要な心構えなり習慣なりを人々に刷り込むことになりがちだ。そうしたところで、やはり抗うことのできない巨大な機構に人を組み込む手伝いにしかならないのかもしれぬのである。

自分の研究や教育の前提となる「哲学」みたいなものにおいて、知らず知らずのうちに近代的自我という理想がかなり重要な地位を占めるようになっている。それを「自我」とか「主体性」という言葉で理解するようになったのは最近のことである。以前とて「自我」や「主体性」という言葉は知っていたけれども、自分が直面している問題をそのように捉えることはなかった。耳学問にとどまって、自分のやっていることとつながってなかったわけである。

だから、このなかば暗黙の理想に無批判である状態が長いこと続いたのであるが、さすがに現代のエライ先生たちの謦咳に接して、近代的自我の観念はさまざまな問題を抱えているらしいこともわかってきた。しかし、そうなると自分のやっていることに対してそれが意味するところのものも無視できなくなってくる。

それだけじゃない。自分自身が管理社会や健康ファシズムの怖さを身をもって体験したことで、フーコー先生などの言うことを単なる妄想であると切り捨てることもできなくなった。近代社会には明らかにそうした危険があるばかりか、その危険は半ば現実のものとなっている。多くの人間の人格が日々歪められ破壊されていて、その最前線が教育現場であるのかもしれない。こればかりは、どうも否定できそうもない。

だが、学生に向き合うとき、自分は教師ではなく教官たることしかできないのか。自分自身で考えるよう促すとき、子を孤立し無力な自我へと落とし込んでいるのか。「自立した人間」たるために克己や修養を勧めるとき、自分は管理社会のエージェントの役割を果たしているのか。言い換えれば、現代社会はすでに全体主義化してしまっていて、自分の意識もそこから容易には超越しえないのであるか(逆に言えば、そう気づいている人間だけは近代を超越していると言えるのか)。そうだと断言する人がいれば、あまりにも一面的な考えではないかと自分は疑うのである。

さて、伊藤計劃の『ハーモニー』は、「わたし」の意識を奪うプログラムが作動するところで終わる。自我を失った人間はもはや自己の物語をあたかも他者が眺めたように語ることができない。だから、自我のない世界では近代的な意味での作家はいなくなってしまうのである。「われわれ」の物語はまだ語れるはずだが、それは近代小説とは全く異なるものとなろう。

だから、自我がなくなった世界では、人々は何を考えてどのように生きるのかはこちらの想像に任されている。しかし、これを想像することは思ったよりむずかしい。自他の区別がまったく無意味となる状態が想像できないからである。「自我を失った自己を物語る自我」というようなものの存在を想定しなければ、そのような想像を行なう主体が理解できない。しかし、そうした自我は自我を失っていないのではないか。

自他の区別は近代社会以前においてもまったく無意味であったはずはない。チャールズ・テイラーが『自我の源泉』という本の中で使った例を借用すると、マンモスを狩っている原始人の集団がいて、わたしがその一人であったとする。わたしは真直ぐに自分に突進してくるマンモスを見る。その際に問題になるのは、「わたし」が何をすべきかであって、「われわれ」が何をすべきかではない。なんとなれば、マンモスに踏みつぶされて死ぬのは自分だけである。マンモスが仲間の一人を押しつぶすのと、「わたし」が押しつぶされるのには大きな違いがあって、その違いにわたしは無関心ではいられない。

社会心理学においてはこうした生物学的個体としての自他の区別の意識という限定された意味で自我というものを定義しているが、テイラーはこうした本能レベルの自我だけでは近代的自我の意味は理解できないとする。それぞれの人間は完全に他人と同一ではなく、互に差異を有しているという点は誰も否定するものがいない。問題は、その差異にいかなる意味が付されるかである。これがテイラーさんの言い分である。

乱暴に分類すれば、一方でこの差異に大きな意味、積極的な意味を付す立場と、統一への障害としてその意味を最小化しようとする立場がある。近代社会は差異に積極的な意味を付しながらも、同時に単なる偶然の産物として消極的に扱うという矛盾があることは既に述べた。

だから、テイラーは、こうした生物学的単位での自我意識という考え方は近代的自我とは別ものであるとする。近代的自我とはやはり西洋精神史のようなものを通じてしか現れてこないという。だから、テイラーにとっては、近代的自我とは「西洋的」現象である。だが、自分などは、死というものが自我というものと本質的に結びついているという事実だけでも、かなり遠くまで行けるのはないかと思う。

前にも何度か書いたが、トルストイ『イワン・イリッチの死』や映画『おくりびと』などが示すように、人間は死ぬときは孤独である。いかに集団に埋没して生きても、死ぬときだけは人は個としての自分自身に向き合わなければならない(これゆえに政治が宗教との腐れ縁を断ち切ることのできないんじゃないか、だから死に際しても一人より道連れを望むのもきわめて人間的なのではないかと思うわけである)。

日常に頽落したハイデガーの現存在も、自我を取り戻すために、まず死の瞬間に思いを馳せることになっている。死の孤独という考えから生に立ち戻った存在は、もう自己を集団に埋没させることはできない。自分がいかに生きるかということは、もはや人によって決められるわけにはいかない。なぜなら、集団は究極の未来(=死)に何の「責任(呼びかけに答える力)」も持ってくれないからである。

だから、「いかに生きるべきか」という問いには集団が答えきれない部分が必ずあって、その部分については個人がそれぞれに答えを出さないとならない。その結果として、みんなが同じような生き方をする可能性は理論的には否定できないが、多様になる可能性が高い。煙草を吸わずに健康に生きようという奴もいれば、煙草を吸ってでも仕事をしようという奴も出てくるだろう。

このような哲学に拠れば、必ずしも絶対的な人格神という存在に頼らずとも、自我の基盤が見いだされるかと思う。だが、やはりそれは周囲世界からは切り離された自我である。果して、この自我がどこまで外に開かれているものか疑問が残る。
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