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2019年08月19日17:39

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慈悲深い社会の自己責任

もう亡くなった人だが、伊藤計劃という若い人に人気のSF作家がいて、『ハーモニー』という近未来小説を書いている(自分は映画は見たが小説は読んでいない)。

暴動、戦争、未知のウイルスの蔓延などにより世界は一度大崩壊を経験した。その繰り返しを避けるため、一種の健康ファシズムによる管理社会が確立されている。健康は公的秩序にかかわるものである以上、もはや私事ではなく、従来の政治にとって代わる公の問題とされているのだ。だから、個々人の肉体的・精神的健康は「政府」ならぬ「生府」によって監視され管理されている。

人々は家畜のような生に甘んじているが、大多数は、健康は自分自身のためであると思うから、むしろ管理を自発的に受けいれる。というより、恐らく管理されているという意識がない。ただ、ごく一部の意識の高い(?)人が違和感を感じている。そうした世界では、あえて危険を冒すことのみならず、喫煙や飲酒という不養生でさえ「生命」の反抗の意味を持ちうる。そんな個人がいるかぎりは、世界はまだ大崩壊の脅威を完全には取除いていない。

ここに一人のテロリストが現れて、この不安定な秩序を根底から破壊し、より完璧な未来に人々を導こうとする。それは、人間から「わたし」という意識を一切奪ってしまう「ハーモニー・プログラム」を作動させることによってであった。

この「わたしという意識」とは、われわれが自我と呼ぶものであるようだ。実はこのテロリストはまったく自我をもたない珍しい種族の生き残りである。だが、紛争に巻きこまれ暴行を受けた際に自我意識をもってしまったという暗い過去を持つ。そして、自分の自我を「呼び戻した(植えつけた?)」世界への復讐をたくらんでいるようなのである。この自我こそが世界の災厄の源泉である、人類の救済は自我のない世界へ回帰することによってしか達成されない、というのがその大義である。

そうなると、この自我をもたない世界というのは、いつぞや話したゲマインシャフト(利害ではなく血縁・地縁などによってつながった共同体)の匂いがする。個人が自らの所属する集団に完全に埋没し、つねに「わたし」ではなく「われわれ」として考えるような世界である。そうすると、このテロリストのイデオロギーは思ったより古臭い。ゲマインシャフトからゲゼルシャフト(利害でつながる近代社会)へと堕落した人間は、再びゲマインシャフトに回帰することによって救済を得るという歴史哲学は、どうも近未来でも生き残ったらしい。個が全体と調和するという全体主義者の理想世界である。

すでにピンときた人もいるかもしれないが、この伊藤さんが影響を受けたらしいミシェル・フーコーという思想家がいる。実際、くだんのテロリストは高校生のくせにフーコーを愛読していたりする。

フーコーは主体性というもの自体が管理社会の統治の手段として作り出されたと考えた人で、自我などという考えにあまり同情的ではない。彼にとっては、主体性という考え自体が個々人の頭に外から植えつけられた一種の統御プログラムなのである。だから、自我は思想や教養を通じた内的模索から生じるのではない。学校、病院、刑務所、軍隊などの施設において、規律に従わされることによってしつけられた生身の身体の倒錯した意識である。外から統御する手間を省くために、個々人が規格から外れないように自分自身を自己管理するのである。

そうなると、規格から外れるのは自己責任であって、社会はその責任を負うことはない。他方で、社会は規格から外れた者を「更生」する権利を留保する。社会はもはや「処罰」を行なわない。自分で自分の面倒を見切れない人を、慈悲深く助けてくれるのである。拷問はセラピーにとって代わり、首切り役人はカウンセラーに転職する。そしてこの神に近い慈悲深い社会に対する抵抗は、忘恩であり裏切り行為として厳しく糾弾される。義賊はもはや存在しえない。

フーコーの議論の強みは、次のようなものである。自我とか個性というものを人間の本質として称揚した近代社会はまた、自我とか個を否定するような合理化を極度に進める管理社会でもある。この矛盾がフーコーの理論では統一された土台で説明可能なのである。つまり、自我などというものは近代管理社会が作り出した幻想、というより、管理化を押し進めつつ、その非人間性を隠匿する質の悪い欺瞞である。

『ハーモニー』における健康ファシズムの管理社会は、まさにこのフーコー的な世界として描かれ得る。一見、個人が自分の健康の責任をもつのであるが、実は個人の自己管理能力は信用されてない。だが、自分は「普通」であると盲信する人々は、自分で健康管理ができない人間を自己責任を欠いた人間、潜在的な犯罪者、社会への脅威として憎み畏れる。だから、社会が強制力を用いて責任能力を欠くものを更生する権威を容易に認めてしまう。

言うまでもないだろうが、この近未来はわれわれの生きる現代を映す鏡として描かれている。対象化された自己を統御し管理するものとしての自我は、実をいうと頭の中に埋め込まれた管理社会のエージェントなのである。生命体としての意志の現われであるどころか、その生命を型に押し込めて圧殺するのが自我なのである。だから、多くの人が自我を持つことに苦痛を感じ、それから逃避しようとする。それは自己からの逃避ではない。自己を押しつぶす社会からの逃避であり、それに対する抵抗である。

くだんのテロリストがこのように考えたのかどうかはよくわからんのであるが、その代りに彼女が提示したのは、「わたし」という意識がないゲマインシャフト的な状態への復帰なんである。もはやそこでは自我と自己の分裂に悩まされることはない。そうではなくて、個々人はあくまでも全体の一部として考え行動する。いや、考える必要もないのかもしれない。個人ではなく全体が一つの生命体となり、部分は全体と調和するように考えさせられるのである(だから「ハーモニー・プログラム」)。

果たして、このテロリストは義賊の存在しないはずの社会における義賊であるのか。フーコーの忠実な弟子であるのか。

長くなったんで、下半分は次回とする。
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