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2019年08月18日10:55

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訃報 民主主義

閑話休題。唯一無比の自分を認めてもらいたいと思う欲求と、大勢の中に埋没していたいという欲求の間を揺れ動く現代人たちに、「そこのあなた」と呼びかける人がたくさんいる。でも、うっかり「え、わたし?」と振り向くと、詐欺か宗教勧誘などであったりするから油断がならない。あなた爐豊畍討咾けるふりをして、実はあなた爐鬮畭仂櫃箸靴徳犧遒兄拉曚靴茲Δ箸垢訖佑燭舛任△襦

そうなると、爐豊瓩隆愀犬浪搬欧篆討靴ねЭ佑隆屬妨造辰討いて、そのサークルの外にある人々とは爐鬮瓩隆愀犬任△襪罰笋蠕擇辰読佞合った方がよい。こうして「内」と「外」が区別されて、内には開かれ外には閉じられた自我ができる。自我というものが特殊な集団とは独立した「わたし」の領域を切り開き、集団の外とつながる機会を与えるはずが、気心の知れあった者同士が慣れ合うところで終わってしまう。

だから、内には過剰なほど誠実に尽くす日本人は、外に対しては概して冷たい。外に向けては高い塀を築くから、一見、自我が強すぎる人々のようにさえ思える。が、内からの同調圧力に屈する早さとその徹底ぶりときたら、これが同じ人かと自分も何度もびっくりさせられた。こんな社会では、どの集団にも属さないことは、その他大勢の一人として常に操作・支配の対象としてしか扱われないことであるから、余計にいずれかの集団に同化する圧力がかかる。偏狭で自分中心主義の集団とそこからこぼれた孤独な個人の群。こんなものがわが国における自我の現状ではないかと思う。

実は、集団への同調圧力というのは日本にかぎらず、どこにでもあって、なかなか容易には無視しえない力を個人に揮う。近代的な意味での自我を持つということは自然なことではない。むしろかなり不自然である。

しかし、西欧社会の一部の人々がこの圧力に耐え忍んで、「わたし」という内面的宇宙を切り開く強さと厚顔無恥さを得ることができた。それは、「内」に属さないのに、常に個人の側に佇んでいる存在があったからである。

では、弱い個人を集団の圧力から守った存在とは何であるか。レヴィナスとかブーバーとか「汝」との関係で自我を考えた人々はユダヤ系の哲学者である。だからその哲学も絶対神との関係が念頭にある。神は支配や操作の対象とはならない。対話の相手にさえならない。神はただ呼びかけるだけで、人間は一方的にその呼びかけに答える義務だけを負う。

そんな神さまを信じたことのないわれわれには想像がつかんのだが、考えてみるとこれはなかなかの緊張を強いられる状態である。たとえ他人の目が届かないところでも、常に神はそこにいる。自分が何かをしたりしなかったりするたびに、「お前、いいのかそれで?本当に?」と問いかける「顔」として現われる。「だって、他の奴らもみんなやってるじゃないか」という答えは受け入れられない。「これはオレとお前の間の関係であって、他人は関係がない」と言われるだけだ。

こんなうるさい存在に四六時中付きまとわれたら、気が休まらない。しかし、人格神というのは、文字通り人格を持った存在である。人格であるということは固有の意志を持つということであり、自然の法則を枉げてさえその意志を実現する能力を有する。いくら働きかけても沈黙で応え、それがゆえに対象として扱わざるをえない「自然」とは異なる存在である。救いや介入を当然視することは許されないが、神が恩寵を与えてくれる慈悲深い存在であることを信じてなすべきことをなせば、きっと応えてくれるであろうという期待が、人格神という考えには込められている。神とはそれ爐豊甕えるだけではなく、また訴え祈るものなのでもある。これなしでは信仰は成立しない。

この信仰は、「神があなたに応えることは期待せずに、あなたが神に応えるようにしなさい。そうすれば、神はきっと応えてくれるだろう」という屈折を含むものであり、そういう意味では絶対的人格神という概念は矛盾する契機を内に含むものである。彼はわれわれを必要としないから、ワイロは通用しない。しかし、人格である以上、慈悲を請い願うことは可能である。この矛盾が生む緊張が近代的自我という考えに与えた影響は甚大である。この神の存在があったから、一部の新教徒の中から集団からの同化圧力から逃れる人々が生まれきた。これが個人主義と呼ばれるものの一つの源流である。

マックス・ウェーバーはこの内面的緊張が資本主義の原動力になったと指摘したことで有名であるが、彼の理論の射程は資本主義社会の宗教的源泉をずっと超えていて、近代そのものの精神的基盤に達している。そして、マルクスやデュルケムとちがって、彼が近代に対してあまり楽観的ではなかったのも、その点を理解しないと見えてこない。絶対神を奉じないわれらには理解しがたい一面であり、われらがあまり緊張しないでいられる一つの理由である。

そんな厄介なものを背負い込まないでよかったのであるが、その分、集団に埋没しきってしまう人と、孤立して何の自信も希望も持つことができない人の割合も増える勘定である。最初に自我を発展させた人々の強さの一つは宗派としての集団的団結でもあったのだが、同時に印刷資本主義を通じて特定の集団を超える人々とのコミュニケーションで孤立した自我をつなぐこともできた。マス・コミュニケーションでありながら個人的でもある、「告白」としての意味をもつ近代小説などがそうしたコミュニケーションの典型である。そういうわけで、完全な同化からは踏みとどまりながらも、主に言論を通じて外へも開かれた自我というものが、まがりなりにも可能になった。

では、そんな絶対神を信じない人が自我を保ちながらも、外に対して自己を閉じてしまわずにすむ方法はないのか。いまや不信仰の時代である。日本であろうが欧米であろうが、この問いに答えられないかぎり、絶望することなしに集団への同化圧力に耐えぬけるような個人がわれわれの中から育ってくるとは期待できないであろう。

実を言うと、神を信じない人々にとっても、爐豊瓩任弔覆る関係は近代社会に内在している。例えば民主主義である。今では、個々人が選挙に行って、人に隠れてこそこそ票を投じるだけで、あとは選ばれた政府が「政策」を通じてわれらを操作・支配の対象として扱うのが、民主主義だと思われている。だが、民主主義とは元来、市民が互いを対象でなく対等な人格とみなして(つまり、爐豊瓩任弔覆る与格の関係に立って)、共通の問題に対処するということを意味した。言ってみれば、同胞市民が神に代わって、「私的」領域に閉じられた個人の意識を外に向けてこじ開ける役割を果たすのが民主主義である。「市民」とはまた、個人がそれ爐豊甕え、また訴え祈る与格なのでもある。

しかし、問題はこの民主主義がこの理論通りには機能していないということである。むしろ、政治が個人や集団の「私的」関心によって植民地化される事態となっている。別の言い方をすれば、民主制度自体が市民が互いを爐鬮瓩隆愀犬任弔覆阿燭瓩離船礇鵐優襪箸靴突用されるに至っている。だから、民主制においても、市場におけるのと同様、自分個人の利害や好悪感情に従って行動すればよいのであって、他人の呼びかけになど応える必要はないと、われわれは思っているのである。

自分の研究や教育などの活動を支えてきたのは、「他者」を対象としてではなく対話の相手として見ることから得られる知の領域を確認することにより、形骸化した民主制の意味を見直すことができるのじゃないか、そうした民主主義はナショナリズムとの関係も相対化することができ、外に対してより開かれたものになるのではないか、という見通しであった。

だから、それを特定の信仰形態に結びつけるのには抵抗があった。だが、考えてみると、この「他者」の最たるものが「神」である。こうやってレヴィナスなんぞについて考えていくうちに、結局は同じ問いに戻ってしまうのである。果たして、「神」のような存在への信仰を潜り抜けずに、人々は自我を確立することができるのか。この自我なしに自由な近代社会はありうるのか。それは人格を破砕していく巨大な機械みたいなものに堕していくだけじゃないのか。

結局、近代民主主義などというものも歴史の偶然が生み出した産物であり、絶対神に近いものを信奉して自我意識を育んだ者だけが住めるユートピアに過ぎなかったのではないか。そうではない人々を民主制に放りこめば、今のような状態になるのは目に見えていたのではないか。知的に優れた人と大衆の分かれ目はまさにここにあるのであって、生半可な教養を詰め込んだくらいじゃこの垣根は越えられないのではないか。

自我意識が未熟だから自由も民主主義も理解できないというのは、内外の知識人にとって日本のような国を批判する定番の議論で、自分などはこれに反発した世代に属する。だが、自我の歴史について知り、また自分の周囲の人間たちが簡単に集団圧力に屈していくのを目の当たりにしてみると、この定説にも一理あるのではと思わざるえない。自分はずっと民主的価値の信奉者であり、今でもそうであるが、告白すれば、ここ数年、そういった疑念にまとわりつかれるようにもなっている。自我についてもう一回じっくり考える必要に囚われたのも、そうした理由からである。
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