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2019年08月15日22:44

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なぜ日本は戦争に敗れたのか

「どうしてこうも浅ましく国は敗れてしまったか」

これが柳田国男が戦後に発した問いである(「現代科学といふこと」昭和22年)。どこであったか忘れてしまったが、別の人も同じ問い方をしているのを見たことがあるので、柳田だけでなく多くの人に共有された問いではなかったかと思う。

戦後世代であれば、こういう問い方はしないであろう。問いは「なぜ日本は敗れたか」ではなく、「なぜ日本は戦争を始めてしまったか」であろう。どっちでも同じじゃないかと思う人は、前者の問いでは戦争自体ではなく敗戦が問題とされている点に注意してほしい。戦争を始めたのは悪いとはかぎらないが、この負け方はまずい、このままにして置いてはならない。そういう問いかけなのである。

これは戦後の平和主義者の感覚とは異なる。戦後平和主義においては勝とうが負けようが、戦争自体が悪なのであって、それを始めたこと自体に問題がある。柳田の問いはそうではない。勝てたかもしれない戦いに、なぜこうも情けなく、完膚なきまで叩きのめされたのかという口惜しさが含まれている。平和主義者にとっては、ちょっと聞き捨てならない問いであるはずだ。

今日、絶対的に戦争反対である平和主義者の年寄りたちは、戦中派といっても当時は子供だった人々が多い。気がついたら戦争に巻き込まれていたのであって、彼ら自身が戦争に加担したとは考えていない。うちの母などもそうであるが、彼らの戦争とはひもじかったとか、米軍の飛行機が飛んできて怖かったというものである。だから、自分たちは戦争の犠牲者であり、一部の指導者が国民を騙したという戦後史観はしっくりいくものである。

これに対して、戦時中に青年であった戦中派の中には、異なった思いを抱く人たちがいる。自分の父などもまさに戦争によって青春時代が刻印された世代である。戦後はキリスト者となり筋金入りの平和主義者となるが、学生の時は航空科であり、軍国青年でもあったようだ。平和主義者なのに、戦艦が好きであったし、部屋の壁に朝鮮戦争の地図が貼ってあったり、戦記物などもよく読んでいたから、戦争には複雑な思いがあったようだ。

こういう戦争と青春が重なった世代のエリートたちには、戦争に対する倒錯した陶酔があった。橋川文三は自分や三島由紀夫らが属するこの世代を、シュミットのロマン主義批判を援用して次のように自己解剖している(『日本浪漫派批判序説』)。明治末から大正にかけて煩悶青年を生んだ時代の閉塞感はすでに中流まで広がっている。若者にとって日常生活とは不安と絶望の対象にすぎず、非日常・非現実にこそ生の意味が見いだせると感じている。無意味な日常が否定され非日常が日常となる戦争は、そうした青少年にとってまさに「生」をもたらす出来事として受け取られた。

だが、奇妙なことに、彼らの生とは華々しく死ぬことであった。彼らにとって戦争の勝敗は二の次の問題であり、戦地に赴くのは始めから死ぬためであった。だから、敗戦をもって日常に復帰した彼らの中には、もはや人生に生きる意味が見いだせない人が多くいた。この世代の精神遍歴はトーマス・マンが『魔の山』で描いたドイツの第一次大戦世代に近い。この世代がナチス台頭の後ろ盾となった。日本の場合は、自分らが単なる詐欺の犠牲者であったとされることには疑問を感じているが、占領下にあるので戦争を正当化するようなことは口にしにくかった。それで戦後には沈黙する人が多かったようである。

こんな青年たちに困惑した年上の世代もまた別の理由で沈黙した。若い世代とちがって、積極的にしろ消極的にしろ、戦争を支持したことに対して直接責任を感じる人が多いはずだが、それがゆえにかえって戦後は沈黙する人が多いのである。そうして、戦後政治においては、この沈黙を歓迎する雰囲気が強かった。それで、しばらくすると、なんのためにあんな大戦争をしたのか、よく分からない人ばかりが育っていった。戦後の平和教育のマイナス面であった。

戦争の反省が被害者の立場からしか行われないから、戦後の平和主義にはどうも軽薄さがまとわりつく。「蒋介石なんか簡単にやっつけられると思ったのに、気づいたら男たちは遠い戦地に送られて帰ってこないし、そのうち空からぼんぼん爆弾が降ってくるし、あんなことはもう金輪際ごめんだね。やっぱり平和がいちばんだ」。突き詰めると、こんなものが戦後平和主義の正体ではないか。これはこれで戦争を経験した人たちの実感であるが、この「平和」とはまず日本人が戦地に送られないことであり、日本に爆弾が落ちてこないことである。

だから、この「平和」は日本を巻き込まない戦争とは必ずしも矛盾しない。現代における戦争を生み出すのは一体なんであるのか、自分たちの行動がそのような紛争にどのように貢献しているのかについては反省が行なわれることはない。日本人は戦争の被害者としてだけ平和を望むようになってしまった。だから平和を心から願っている自分たちが紛争の原因になりうるわけがないと過信してしまっている。戦争の恐怖の記憶が薄れれば、こんな平和主義は簡単に脱ぎ捨てられる。免疫のないまま反動思想にかぶれるような若者を引き止めることなどできない。

柳田はずっとの上の世代に属するから、戦中世代の陶酔を共有していない。彼は戦争には非協力を貫いたといわれているが、実は自分なりに国難を危惧し、民俗学を通じて国に貢献し、かつ民俗学を役に立つ学問として売り込もうとしている。しかし、戦争自体には一定の距離をおいていると言ってもよい。

だが、「なぜ敗れたのか」という彼の問いは、勝ってもよいはずの戦になぜ完敗したという問いである。勝ってもよいはずというのは軍事的、戦略的な意味ではない。戦争という手段はともかく、アジア解放という大義は反対できないものであるという感覚である。しかし、この道義的力を政治的・軍事的力に転換するには、アジアの人々の心を掴まなくてはならなかった。そのためには、日本は自らの偏狭な国益をより大きなアジアのための公益に従属させなければならなかった。

柳田が戦争に懐疑的であったのは、果して日本にその準備ができているかどうか心もとなかったのではないかと思う。そうして、やはり彼の予想通り、日本はこのアジアの人々の心を巡る外交戦で完膚なきまで叩きのめされ、一人だけ悪者となってしまったという無念さがあったのではないだろうか。そして、この惨敗の原因の一つは、第一次世界大戦以来の日本の外交下手にある。大義をないがしろにして、自国の利益ばかりを考え行動し、それが外部の目からどう映るのかをまったく考慮しない無反省さがある。柳田が自省の学問としての民俗学で治療しようとした病である。

「なぜ敗れたか」という問いかけが政治的に正しくないように思えるのは、戦争を肯定しかねない可能性を秘めているからである。しかし、多くの日本人はかつて戦争を肯定したのであって、それがどんな理由からであったかと問うことなしに、戦争を反省しえない。その反省なくしては、いかなる謝罪も説得力がない。何について謝罪しているか、本人がわかっていないのである。戦争が誤っていたということは、その大義が過っていたのか、大義は正しいがどこかでわれわれが失敗したのでなければならない。この反省を怠ったため、日本は自前の帝国主義批判、植民地主義批判を発展させることができず、この点でも欧米に後塵を拝することになったのである。

つまり、日本はいまだに戦いに敗れ続けている。植民地主義の非道ではわれわれに勝るとも劣らなかった国々に、旧植民地の人々は恨みも抱きながら、やはり憧れを感じ、自分たちの社会を考える際に向き合う存在として一目置いている。エリートの多くは欧米で勉学をして、欧米批判でさえもそこで磨いてくるのである。

ひるがえって、わが国を見てみよ。戦後の平和教育は、なぜ隣国から恨みを買うのかさえ理解できない人を育てただけだった。せっかく忘れかけた歴史を思い出させるものは何でも「反日」だと思う人ばかりが増えた。そんな国に憧れ、学ぼうとする人間がどれほどいるか。これがかつてアジア帝国、世界帝国という大それた夢を見た日本の成れの果てなのである。

身の程知らずであったということであるが、そう断言するには自分の身の丈と無理に着ようとした立派な衣装について知らなければならない。なのに、「なぜ敗れたのか」、「なぜわれわれは帝国を失ったのか」という問いを避け続けたわれわれは、大きな犠牲を払って親々がやろうとしたことを、単なる気の迷いという一言で片づけてしまった。これがあの苦渋に満ちた体験から得らえる唯一の教訓であったら、それこそ多くの日本人は犬死であったと悲憤しなければならない。
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