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2019年08月04日18:46

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いかにガソリンの正しい使い方を知ってもらうか

世の中には余計なことをする連中がいて、よせばいいのに人が聞きたくない話や見たくもないものを公の場に展示して、他人の心の平穏を乱しては喜んでおる。だが、日本国民の心を傷つける行為に義憤を感じる真に民主的な政治家も増えているようだから、そう悲観したものでもない。

そうはいっても、ピカピカの新車の塗装のように傷つきやすい心をもった国民である。まずはこの優しい心を表現の自由を振り廻す恥知らずな輩から守ってやらなければ、ガソリン屋もおちおち商売ができない。外部からの検閲なんてものもその役割が認められるべきなんであるが、理想を言えば先生方や官憲の手を煩わすことなく、一人ひとりが自分の表現を自己検閲できればよい。そんな例が過去にもある。

1924年ごろ、岡正雄という若い民族学者がJ・G・フレーザーという人類学者の書いた『王の呪術的起源』という本に感激して、これを翻訳出版しようとした。そして、その序文を柳田国男にお願いした。

この本は1906年の講演記録なのであるが、後に大作『金枝篇』の第三版の第一部の下敷きとなった。柳田はこの『金枝篇』の完全版13巻を通読するくらい同書に入れ込んでいたから、序文をお願いするのに最適な人物だと思ったのだ。

期待に反して、柳田はこの要請を断る。それだけじゃなくて、岡は「君が出すならあらゆる方法をもっておれは反対し、妨害するというようなことを言われた」そうである(岡の談話。渋沢敬三『犬歩当棒録 祭魚洞雑録第三』所収の「還暦祝賀記念論文執筆者招待会席上座談話集」。佐伯有清『柳田国男と古代史』に引用)。

さらに、時期は不明なのだが、『金枝篇』の簡約版を翻訳した永橋卓介が柳田に相談に行ったときも、まったく関心を示さなかったらしい。永橋はフレーザー自身に会ったときに、柳田がフレーザーを個人的に訪問したことがあったと聞いている(永橋「解説」『金枝篇』第5巻、岩波文庫)。おそらく、柳田がヨーロッパに滞在した1922年頃であると思われるが、柳田自身はこの面会については完全に沈黙を守っている。

柳田自身フレーザーの学恩には何度も言及しているから、こうした態度がフレーザーに対する敵愾心からのものであるとは考えにくい。柳田は次第にフレーザーの仕事に批判的になるが、晩年になっても彼に対する敬意は失っていない。自らの仕事がドイツ民俗学よりイギリスの民俗学・人類学、何よりもフレーザーから影響を受けたとことを公に認めている。

それでは、なぜ柳田は『王の呪術的起源』の翻訳出版に反対したか。実は、同書には、日本の天皇に関する記述がある。300頁近い書物のなかでわずか二カ所、いちばん長いものでも一パラグラフのみである。中国の皇帝と同様日本のミカドも太陽神の子であり、神々や人々を含む世界を統治している。一年に一回は全国の神がミカドの宮廷の集まり全国の社が空っぽになるため、この月にはお参りする人がいない、という内容である。記述はシーボルトの著作に拠っており、正確とは言えないが当たり障りのあるような内容には見えない。

しかし、王権は呪術師から発達したというのがフレーザーの主張であって、天皇が例として挙げられている以上は、日本の皇室の皇祖皇宗もまた呪術師であるということになる。日本の国体観念とはとても相容れそうもない話である。

実は、フレーザーの関心は、ヨーロッパの王権の起源をキリスト教以前の古代信仰、特にアーリア人の呪術信仰に求めようというものである。そのためにヨーロッパのみならず、世界各地の事例を引っ張ってくるのである。インドはともかく、新大陸やアジアにおける同様の信仰がアーリア人の古代宗教とどのような関係にあるのか、あまりはっきりしない。だが、フレーザーは文化進化論の立場に立つから、人間の斉一性を前提としている。だから、伝播ではなく個々の地域で似たような信仰が個々に発生したと考えているようである。

そういうわけで、『王の呪術的起源』は特に日本の皇室の起源について結論を下すものではないし、また日本を遅れた未開民族扱いしたものでもない。むしろ、どこでも人間は似たようなことを考えて、似たようなことをしていたという話なんである。

しかし、これを日本人が読めば、容易に日本の記紀神話などに共通する材料を見出すことができる。もっとも差し障りのありそうなのは、古代社会の王族は女系であるという点である。王国は国王ではなく女王の方に属しており、王族の血筋は女性を通じて受け継がれる。逆に言うと、国王は誰でもよい。だから平民でも奴隷でも国王になることができる。竹取長者の娘が求婚者に競わせたように、多くの候補者の中からいちばん優秀な者を選べばよいのである。

そういうわけで、国王というのはちょっと微妙な立場である。王権は女を通じて継承されるから、自分の息子ではなく妻の兄弟(義理の母の子)や姉妹の子が優先される。さらに、もともと女王というのは神の巫女でもあり、神の子を孕むとされた。だから、国王は父親とは認められない父親なのである。言ってみれば、女王バチや女王アリに尽して捨てられるような雄バチ、雄アリのような立場なのである。

だから、かつては王子たちは父の王国をそのまま引き継ぐことができなかった。他の国へ行って女王や姫の恩寵を得る必要があったのである。王子たちが姫たちをめぐって競うのは、その美しさのためばかりではない。その麗しい顔や愛情の背後には支配すべき王国がぶらさがっていたのである。

記紀神話では皇室は父系の万世一系ということになっているのだが、どうも苦しい点が多々ある。解釈次第で、元は女系であったののを無理に父系にしたんではないかと思われるような点がある。まずは、男系であるはずの皇室も、その祖神だけはなぜか女性のアマテラスである。父系であればスサノオの家系に王権が行くはずだが、そうはなっていない。

神武天皇の母君は祖母の妹である。祖父のヒコホホデミ(山幸彦)は海神の娘である豊玉姫を娶る(もしくは婿に行く?)のであるが、見るなと言われる産屋を覗いてしまったため、姫は子を残して海に帰ってしまう。そのかわりに子供の養育をさせるために妹の玉依姫を送り込んだのである。この玉依姫と姉の子であるウガヤフキアエズとの間に生まれたのが神武天皇なのである。形式的には父系になっているが、伯母と結婚して母系型の継承権も受け継ぐ形になっている。

記紀神話には伯母と甥が結婚する例が少なくないのであるが、そうすることによって父系の王子が母系の王位相続権を得ることができるのである。王が亡くなると、王の息子と王の兄弟(つまり女王の息子)もしくは姉妹の息子のあいだに相続権争いが起こるのは、この母系と父系とのあいだの対立である(たとえば、天武天皇と大友皇子あいだの争い)。

この神武が東征の後に娶ったのがヒメタタライスズヒメである。初代の皇后である。この姫は大物主もしくは事代主神の娘である。大和の豪族の娘である玉櫛姫を見初めた神が、姫が便所にいるときに丹塗りの矢に化けてその局部を突いた。そして姫が受胎したのである。処女懐胎と呼べるのかどうかわからんが、世界に共通の神話である。この神は三輪の神でもあり、その父はスサノオの女婿(!)でもある大国主でもあるらしい。

万葉集などでも、御製の歌で、天子みずからが旅をされて地方の娘たちと語らうようなものがある。今で言うところのナンパみたいなもので、かつては皇室は庶民に近いところにいたのだなと微笑ましく思えるのだが、考えてみるとこれも妻求め=王国求めの伝統の残滓なのかもしれない。

この母系の王権相続がいつからか父系にとって代ったわけだが、記紀神話などを読むと、この転換が大和朝廷による日本統一事業と関係があるのではと思えなくもない。武力による征服であるか政略結婚であるかは別として、土地の豪族の娘や後家と婚姻関係を結び、その上で王権相続を母系集団である地方豪族から奪うことにより、朝廷は日向、出雲、大和の三地域を統一しえた。これが古事記や日本書紀の舞台が三地域に分かれている理由ではないか。だれがこんな大事業を企てたのかはわからないが、日本書紀では高皇産霊神というアマテラスの祖父にあたる神が大活躍している。そのためか、皇室の真の高祖はこの神であるという説もあるようだ。ちなみに、天孫であるニニギはこの神の娘がアマテラスの子アメノオシホホミと結婚して生んだことになっている。やはり伯母と結婚したのである。

そうであるとすると、皇室は母系集団から王権を簒奪して誕生したのであり、女系天皇は国体の基礎を覆しかねないものになりかねない。フレーザーの『王の呪術的起源』や『金枝篇』などは、まさにこの危険思想の可能性を秘めたものであった。王と女王が大地の女神と天空の神の化身としてまぐわうことによって宇宙に生命力が回復し、作物や家畜も育ち、また人の子供も増えるという信仰は、皇室の宗教行事や民間信仰にも相通ずる点がある。柳田国男は恐らくこの危険に気づいており、それゆえにその翻訳に反対したのではないか。

だが、柳田自身は国体観念に批判的であったと思われるから、国体思想の破壊を懸念したんでない。皇室に対する敬意もあったのだろうが、それ以上に、フレーザー卿がマルクスやクロポトキン以上に不逞な思想家であるというレッテルを張られるのを恐れたのであろうと思う。もちろん、柳田自身がこんな不敬な説を支持していたというわけではない。そうではなく、そんな臆断を下す愚か者が出てきて、民俗学・民族学の芽を摘んでしまうかもしれないことを恐れたのである。

これは単なる杞憂ではなかった。岡が序文を断られた1924年には、吉野作造の舌禍事件が起こっている。当時柳田は東京朝日新聞で吉野の同僚であり、この舌禍事件のきっかけとなった発言の行われた政治集会の現場に立ち会わせている。また、柳田が久米邦武や津田左右吉らの古代研究から距離を置こうとしたのも、それが危険思想とみられる可能性を察知していたからかもしれない(佐伯有清『柳田国男と古代史』)。津田は後にその記紀研究のために「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として攻撃を受け、不敬罪で起訴された。柳田はその津田がかかわった岩波講座に「国史と民俗学」など書いている。ちょっとでも舵取りを間違えれば、柳田自身も凶悪思想家とされるおそれは否定できなかった。

柳田はこの危険を自己検閲によって老獪に潜り抜けた。だが、全面降伏して迎合・沈黙したわけでもない。例の韜晦でもって、人が聞きたくないことを、分かろうとする人にだけ分かるやり方で公けにしつづけた。結論を押しつけるのではなく、自分自身で考えさせることによって、傷つくことなく知恵を得られるように気づかった。言ってみれば、敵のふところに入り込んで、自省によって閉じられた自我を開いてもらおうということだ。おかげで柳田の著作は弾圧を受けずに、自由に読まれることとなった(残念なことに、理解するより誤解する人間の方がよほど多かったようでもあり、ここらへんに柳田の功罪がある)。

このテフロンのように傷つきやすい心をもつ国民がガソリンの使い方を誤らないようにするためにも、柳田の自己検閲から学ぶ季節が到来しているんではないか。
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