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2018年09月20日17:59

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大学院生の墓場

 彼女と出会った頃、僕はかなり憂鬱な日々を送っていた。僕が働いていたのは大学のある「研究所」であったが、それは名ばかりでなんの実体もなかった。そのほとんどない仕事をほぼすべて所長が独占して、後は決まりきった書類仕事を任される副所長とその助手がいるだけの代物であった。忙しく見えるのは所長だけなのだが、彼が一体何にそんなに忙しいのか誰も知らなかった。
 「研究所」にはそのほかにもう一人所員がいた。僕より数年前に博士課程を修了した先輩であった。彼には妙な習慣があった。昼前に事務所を出て、それから午後遅くなるまで戻ってこない。そして、戻ってから昼飯を食うのである。一体何をしているのだろうかと助手と僕は噂しあったが、所長と彼の直属の上司である副所長はそんなことには全く無頓着であるようだった。後でその先輩が告白したところによると、駐車場にとめてある自分の車の座席で寝ていたそうだ。早く今日一日が終ることだけを願いながら。
 僕が入所したてのころ、この先輩が僕を廊下に連れ出して、こんなことを言って僕を面喰わせた。
「どう思う。この仕事を。オレにはどうも先のない仕事にしか見えんのだが。ここだけの話だが、オレはもうずっと別の仕事を探してる。ズラかりたいのさ。お前さんも早いとこそうした方がいいんじゃないか」
 先輩は、かなり長い間こういう話をする相手を求めていたらしかった。
「どうもこうも、僕はまだ仕事を始めたばかりだから、いきなりそんなことを訊かれても困るな。しかも、僕は外国人でビザの問題があるから、簡単にはやめられないよ」
「お前さんはここでどんな仕事を任されてるんだ」
「ベーコンを取ってこいとさ。なんでもいいから補助金や助成金を探し出して、申請書を書く仕事さ」
「ああ、それはオレが今まで片手間でやってきた仕事だよ。何にもないから、オレから一つ骨を取り上げてお前さんに投げてやったってわけだ」
 彼の言葉は僕をびっくりさせた。
「本当かい。それはすまないことをした」
「いや、冗談さ。お前さんも金集めを任せられてるなんて話はオレも初耳さ。オレの仕事も取り上げられちゃいない。二人は競争相手ってことさ」
「え?なんだって。じゃあ、僕らは、今までまったく知らずに同じ仕事を別々にやってたのかい?」
「ここはそんなもんさ。オレが思うに、奴らは本当に金が得られるなんて考えちゃいないし、今の助成金が続くかぎりはむしろ余計な仕事は御免蒙りたいと思ってるね。ただ、金を得ようとしているふりをする必要が有るだけだよ。大学からそう義務付けられてるのさ。大体金をとってきたって、ここには研究調査する能力や準備なんかこれっぽっちもないよ。下手に研究費なんて金が転がり込んできてみろよ。あの人たちは困るだろうなあ」
「どういうことだい?僕たちの仕事はまったくの無駄骨ってことかい?」
「とりあえずそれらしい申請書をでっちあげて出しとくってことさ。その中身を信じるか信じないかは申請される方に任せておけってこと」
 彼の言葉は僕は不安にした。心当たりがあった。
「競争相手かもしれんが、同僚のよしみで、教えてくれ。なんでもいい、とにかくカネだ、カネをもってこいと言われて僕も困っていたんだが、一体どんな事業をこの研究所はしたいんだい。今までどんなことをやってきたんだい。何か研究調査なんかをやったことがあるのかい。ぜんぜん記録が見付からなくて、訊いても答えてくれないし、ちょっと途方に暮れてるんだ。ホームページを見ても、何も具体的なことは書いてないし」
「ハ!どんなことをしたいかだって。そんなことを訊く奴に出会ったのは久しぶりだな。いいかい。ここは典型的な官僚組織だよ。最も悪い意味のね。その存在理由はそれが存在するということ以外にないんだ。存在するために存在するんだよ。いや、これじゃちょっと不親切な答えだな。無駄な学問を修めさせた役立たずの大学院生に何か仕事をしている気分、何かの役に立っているようなふりをさせる場所さ。本当のところは、大学院生を埋葬する墓場だよ、ここは。ここにいるかぎりは、オレたちは生ける屍だよ。いや、ちょっと言いすぎたな。オレはあの人たちには個人的には恨みはないよ。人間としては申し分ない奴らだとは思ってるよ」
 彼の弁解はちょっと遅すぎた。自分の置かれた立場の意味を僕は悟った。確かに、「研究所」の職員は所長以下全員が卒業生であった。たまたまある教育事業に対する政府の助成金が得られたので、修了後に職にあぶれた大学院生を何人か食わしているのである。既存の職員の給料は今はその助成金から出ているが、新規採用の僕の給料のためには自腹を切っている。つまり、ベーコンをとってこいというのは、自分の食う分は自分で稼げという意味だったのだ。僕は、指導教官に泣きついて、この「研究所」に押し込んでもらった。当然、押しつけられた方としては、必要もないのにいいお荷物を背負わされたという雰囲気が最初から漂っていたに違いない。どうやら僕は墓場でさえ余計者のようだった。
 実際、「研究所」は明らかに僕を仲間として認めていなかった。退職するまで、「研究所」のウェブサイトの職員リストに僕の名前やプロフィールが掲載されることはなかった。当初は忘れているのだろうとも考えたが、僕より後に入ってきた職員の名とプロフィールは掲載されるのだから、明らかな嫌がらせとしか思えなかった。実際、僕は知らないことづくめだった。誰も僕とは予定表を共有しなかったから、僕が自分の周りで何が起っているのか知らされることはなかった。一年に数回あるイベントについても、当日留守番を頼まれて初めて知った。出勤時間に誰も事務所に現れないことで、初めて所長以下が休暇をとっていることを知った。「研究所」の資料や書類が保存されている共有サーバーの存在を知らされたのは、入所から半年以上も経ってからで、それも単なる偶然からであった。その間、僕は毎日事務所にきて、コンピュータの前に座って、どこかに誰も拾わないお金が落ちていないか探すだけだった。
 僕とその先輩は上司の眼を盗んでは、よもやま話で互いの無聊を慰めた。
「お前は外交官だったんだってな。オレは大学院に行く前は国際通信社のジャーナリストだった。でも、ジャーナリストの世界でも黒人であることは不利で、何か強力なつてでもないといい仕事がまわってこねえのさ。そこで、オレは大学院に行って博士号でも取ろうと思ったわけだ。白人に負けねえよう、ちょっと箔をつけるためによ。肌の黒い国際関係の専門家なんてちょっと素敵じゃないか。海外特派員にもなれるしよ。でも、来てみてびっくりしたね。あんな役に立たないことを、あんなに大真面目にやってる人間がこの世にいるなんて想像もしてなかったよ。いや、オレは教授たちは好きだよ。でも、尊敬できるかというと疑問だね」
「頼むよ。あまり僕の気を塞がんでくれよ。僕は何がショックだったかって、あれほど勉強して、気が狂いそうになりながら論文を書き上げたあげくに、自分の先生や先輩から『よくやった。さあ、今日から学んだことはみんな忘れて、現実的になるんだぞ。あんなつまらんことは教室を一歩外にでれば、誰も耳を貸さんよ。居眠りされるのがおちさ』って言い渡されたことだよ。言葉と行動でね。博士号をとるのは、学問がまったく無意味であることを知るためだけでしたってわけだ。君が言ってることも、まさにそうだよ。僕はまだ教育や学問の可能性にそこまで悲観してないよ」
「そりゃ、オレたちゃ投資をしちまったからな。過去の貯金だけじゃなくて、未来の希望も一緒に投げ込んじまった。オレにも女房子供がいて、本当にすまないことをしたと思うよ。今更無駄でしたと認めるのは本当はつらいんだ。だけど、オレはもう何年も待ってるんだ。今年こそはオレの年になると思いながら、じりじりして暮らしてるんだよ。もう待ち切れないよ」
「まだ諦めるのは早いんじゃないか。こんな『研究所』でも、もう少し頭を使えば生産的になるはずなんだよ。金を使わずに出来ることはたくさんある。まずはビジョンだよ。いや、そんな哲学的なものじゃなくて、われわれは何をするための組織なのかを定義するのさ。金まわりのよさそうな分野を絞って、その分野について勉強して少しずつでも調査能力を蓄積して、教授陣や専門家と交流してネットワークを広げて。広報だってもう少しはったりを利かせていいと思うよ。人手はこんなに余ってるのに、なんでやらんのかなあ」
「そりゃ、お前さんがこの間メールでみんなに提案した件じゃないか。オレは大賛成だが、所長の言葉を聞いたろ。調査研究は大歓迎だが、われわれは事務員として給料をもらっているんであって、勤務時間外にやってくれたまえ、ってな。その勤務時間に、オレらは生きてるってことがどういうことだったか忘れちまうくらい退屈してるのによ」
 彼は忌々し気に首をふり、僕の方に身を乗り出して言った。
「オレも入所したころは、いろいろ働きかけたさ。ああした方がいいとか、こうしたらどうかとかってね。でも、もうあきらめた。奴らは聞く耳をもってない。賭けてもいいぜ。奴らには自分の仕事が保証されているから、調査研究なんてまっぴらだと思ってるよ。あの所長も相当学問には恨みがあるようだしな」
 それは本当だった。地方自治体職員だった彼は、大学教授への転身をめざして退職間近に博士課程に入らしく、僕らよりかなり年上だった。やはり数年前にめでたく政治学博士になったのだが、その間に学問への憧れは失われてしまった。今では、学問や学者連中に対する敵意では僕の指導教官にひけをとらなかった。普段は羊のように温厚なのに、僕が少しでも学問的なことを言おうものなら、顔をぴくぴくさせて見るからに不機嫌になった。
「僕はここの政治体制にぴったりの名前を見つけたよ」話題を変えるために、僕は言った。「『無能の独裁』っていうのさ。単に無能の王様を受け入れるだけじゃなくて、臣民もその無能を共有しないとならない。なぜなら、あまり賢いところを見せると王様が不安になるからね。あいつはオレの権威に挑むつもりかって。そのかわり、おとなしく阿呆を演じているかぎりは、いくら怠けていてもいいのさ。むしろ、そっちの方がいい。そうすれば、王様は自分が無能な臣民を養うために身を粉にして働く、慈愛に満ちた指導者だって信じられるからね。」
「慈愛に満ちた無能の独裁か!そりゃいいな!ここに慈愛なんてものがあるかどうかは知らんが」
「僕が入所した当日にこんなことがあったよ。君の上司が所長室に入って君か僕のどちらかを体よく追い出すべきだというようなことを言ったらしいんだな。そしたらあのおとなしい所長が烈火のごとく怒って、『よくもそんなことを言えるな!あいつにも養わないとならん家族がいるんだぞ!』って怒鳴るんだよ。その時は、ああ、この人は本当にいい人だなあと思ったよ」
「本当かい。あの副所長の野郎はそんなことを言ったのかい。それは知らなかったよ。まあ、所長は指導者としては無能だけど善人ではあるからな」
「副所長が何を言ったかは聞こえなかったから、僕には何とも言えない。だけど、実は僕はそれほど善人も信用しない性質でね。あの所長だって、こちらがおとなしく養われているあいだは憐れみをかけてくれるけど、ちょっとでも何か生産的なことをしてみなよ。あの羊が蛇に変身するぜ。自分が尊敬される器じゃないことは知りすぎるほど知ってるから、自分の権威に対する脅威にはものすごくびくびくしているんだな。一回でもバカにされたと思ったら、絶対に忘れないよ、あの人は」
「それでお前さんとはしっくりいかんのだな」
 実際、僕は「研究所」のあり方と所長の指導力には不満だった。だけど、心の底では所長を悪者にすることは何かためらいがあった。所長は、われわれのように憤懣をぶちまけて憂さを晴らすことのできずに、何か苦い思いを内に込めてしまう種類の人間だった。でも、巨大なルサンチマンが心の奥底でふつふつと沸騰しているのが、日々のちょっとした言動から見てとれた。
 ある朝、事務所にかかってきた電話を僕はとったことがある。所長夫人だった。
「あなたはだれ?」と彼女は高飛車に訊いてきた。
 僕は名のったが、聞きなれないアジア人の名前など彼女にとってどうでもよいことであった。
「私は、××。所長夫人よ」
 彼女は「所長」というところをいやに強調して言った。どうやら、彼女はこの「研究所」がどういう場所で、「所長」は部下を養うために身を粉にして働く人のことであることを知らないようだった。
「主人が事務所に着いたら知らせてちょうだい。携帯電話を家に忘れてきたって」
 出所した所長にそれを告げると、彼は見るからに嫌そうな顔したが、それでも受話器をとった。話している口ぶりから、癇が強そうな妻に心底うんざりしていることが、僕にも想像できた。役所を辞めて大学院に入り、家族をほったらかして学業に専念し、食えない非常勤講師になった夫に妻がどんな態度をとるか、僕は知り過ぎるほど知っていた。晴れて「所長」になった夫やその部下から、所長夫人となった彼女が今までの借金を取りもどそうとするのは当然であった。
 これも先輩から聞いた話だが、若き日の所長がこの大学の学部を卒業した頃はヴェトナム戦争に反対する運動が盛り上がっていた時期だった。彼もその運動に参加して、徴兵に来た軍人を追い回したらしい。それが今では政府の手先になって、政府の望む人材を養成する手伝いをしているのさ、と自嘲気味に語ったことがあったという。彼が大学院に戻ったのも、一つはこの若い頃のリベラルな理想が燃え尽きずに残っていたためかと思われた。しかし、不幸なことに、彼にはその良心に組みあわすべき知性、特に機知とか想像力という資質がまったく欠けていた。彼の鈍い頭は若き日の理想から一歩も踏み出すことができなかったが、大学にもそんな理想が許される余地はほとんどなかった。厳しい現実を前に一歩一歩後退を強いられ、彼は内にこもっていき、人には知られない一角に籠城することになったに違いない。彼の社会民主主義は、今や彼を少しも慕っていない部下の雇用を守り、その労働を自分が肩代わりしてやることで余命を保っていたが、ときどき、所長がこの「研究所」を働かせないのは、彼にとっては一種の政治的抵抗の意味があるのかもしれないと思うこともあった。
「ここにも残骸がひとつか」
「なに?なんて言ったんだい?」僕の呟きを聞いて、先輩が訊いた。
「いや、なんでもない。なんだって学者になれんような人々には博士号なんて与えるのかね。かえって不幸になるよ」
「なんにせよ、気を付けなよ」先輩は、笑いながらいった。「言っとくけど、オレも養う家族がいるから、お前さんに何があっても同情はするが、助け船は出さんからな。自分の身は自分で守りな」
 それは要らぬ心配となった。こんな会話をした翌年、ロシア人の彼女が去っていったあとに、その先輩も別の就職先を見つけて去っていった。言うまでもなく、国際関係論とは全然関係のない仕事だった。それでも、自分が後に「研究所」を追い出されたあと、先輩はその就職先から慰めのメールを送ってきた。
「お前さんはオレが今まで出会ったなかでいちばん賢い人間の一人だよ」
黒人として差別を体験した先輩には、「賢いアジア人」の存在を認めることができるようだった。
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