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2018年05月29日14:22

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姥捨て社会

ある男が村の掟にしたがって、年老いた親を山に捨てに行く。しかし、やはり良心が咎めて、家に連れ帰ってかくまう。そのうちに、殿様から村に難題が持ち掛けれられ、村人が頭を抱えている。これを男がかくまっている親に相談すると、「なんだそんなことか」と見事に難題を解決し、殿様をぎゃふんといわせ、村を救う。そこで男は親を隠していたことを白状し、村人は反省して姥捨ての掟は廃止される。

こんな昔話があちこちで語られていた以上は、きっと大事にされない年寄がたくさんいたんだろう。しかし、少なくともこんな話をたまには聞かせんとという配慮だけはあった。親に対する愛情は今も昔も変わらんだろうが、親に対する尊敬だけは減じている。ましてや赤の他人の年寄に対する尊敬など話にもならない。

今日では、年寄りは邪魔ものである。年寄りだけじゃなくて、病人でも障碍者でも、あるいは子供でさえも、人の助けなしに生きられなくなると、厄介者扱いを受ける。街のはずれにはごみ焼却場とかリサイクル施設とならんで、病院やらリハビリ・センターやら老人ホームが並び、ご丁寧にその隣に墓地まで作ってある。街で生きられなくなったら街はずれに捨てられて、リサイクルできない者は、そのままそこに埋められるのである。こんな暗黙の圧力がかかる社会だから、年寄でも無理をしようと焦る人が増える。「お元気ですねえ。とても○○歳には見えませんねえ」と言われたいがために若作りする。

昔も、農作業で一人前に働けなくなったら、息子に地位を譲って隠居する。山に捨てられた年寄りもいたのだが、それはあくまでも飢饉の恐れのある時の緊急措置であって、あんたはもう役立たずで持ちだしの方が多いから死んでくれ、と言われる筋合いはないと思えるだけの理由があった。

例に挙げた昔話では、年寄をぞんざいに扱うべきでない理由として知恵が挙げられている。知恵に限らず、人は歳を取れば経験を積んで、人格が完成に近づく。こんな人からは学ぶべきことが多いと考えるだけの理由があった。これが今日では、人は定年になると突如として、無用の長物と化してしまう。昨日まで部長だった人でも、ただの飯を食って排泄する機械のようになって訪れる人もなくなる。

僕らはもはや歳を重ねることを精神的な成長とは結びつけない。いろいろな経験を積むことが人格の陶冶につながるとは信じてない。歳とるというのは失うことばかりで、何も得るものがないと考えている。人生とは単純再生産の労働に占められた空虚な時間が右から左に流れていくだけであると信じている。人工知能は学ぶと信じているけれども、人間は最初のニ三十年を過ぎると、だんだん性能が衰えていく機械のようにしか考えていない。だから、涙を呑んで親を山に置いて来る昔の人の行為を人に非ずと非難しながら、農作業の出来なくなった人間は山に捨てられるべきだという主張に弱い。

そう思ってるから、自分が元気なうちに修養もしない。そんなことでは歳をとっても尊敬される老人にはならない。そんな世の中にしたのは今の老人たちにも責任の一端があるが、老害は必ずしも歳をとった人の問題だけではなく、まだ歳をとらない人の心掛けの問題でもある。
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