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2018年05月25日00:18

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自然と文化と文明

宮崎湖処子の『帰省』と国木田独歩『武蔵野』。

湖処子は帰省の旅、独歩は郊外の散歩であるが、旅と散歩はどちらも空間上の移動を通じて、意識の対象を変化させること。都会の喧騒や汚濁に疲れた者が田舎に身をおくことによって、都市で失われた自然の美を(再)発見する。田舎に住む者にとっては自然は日常的現実であり対象化されていない。自然に美を認めることのできるのは既に自然から疎外された者の悲劇であり特権である。

しかし、田舎の美は都会の文士の主観が投影されたものであることに変わりはない。湖処子は漢文調で、独歩はツルゲーネフやワーズワースを模範とするが、風景に美の価値を付与するのは文明社会を批判的に眺める主観である。美と懐古の情は分かちがたく結びつく。喪失の可能性こそが美を永遠の価値となす。何の物語も語らないこの小篇が語る物語は、文明における人間性の喪失とその回復でのそれである。描写された自然美は、そのまま美を認めることの出来る人間性の内容である。

文明が多くのものを呑み込んでいく時代にこそ、自然をいつくしむ心が生まれる。しかし、文明は自然だけじゃなく古い文化も呑み込んでいく。喪失の危機に瀕した文化に美を見いだし「伝統」化することは、文化を自然化することでもある。失われつつあるがゆえ故に美しいと感じものを保存しようとすると、美は形式に捉えられ逃げていく。こんな矛盾が、自然崇拝にも文化ナショナリズムにつきまとう。

文明だけは、不死鳥の如く自らを失うことにより自らを再生する。時間の流れそのものとなり、時間を乗り越えていく。結局、懐古の情から生まれる美は文明の前には無力である。
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