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2018年05月19日00:12

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グローバル化と国民国家

「国際」という日本語は、英語の「インターナショナル」からははみ出す意味がある。

英語で国際関係というのは、主権国家の間の関係のことであり、そこでは硬い殻を持った国家がビリヤードの玉のようにぶつかり合う。国家は通常同質的な文化や民族からなるものとして想像され、主権が尊重されるかぎりにおいては、他の主権国家との接触は内部には大きな影響を与えることがないということになっている。この見方だと、国際関係上の主体は国家に限られ、国際空間は閉じられた国民国家によって分割されている。個人が国際関係に参入するのは、あくまでも国家の一部としてでなければならない。つまり、日本人ならば日本人のとして、中国人なら中国人として振る舞うことによってしか、「国際化」することはできない。

しかし、日本語の「国際化」というのは、必ずしもこうした主権国家同士のおつき合いをもっと繁くしようという意味ではない。それは世界の田舎者たる日本人が、異なる文化や民族についての理解を深めて、より親しまれ尊敬されるようになろうという話である。外交官のみならず、一般の日本人が自分の国に閉じこもっていないで、海外との交流を通じて自らの人格を陶冶し教養を培っていこうという呼びかけである。日本語の「国際化」という言葉には、国民国家を想定しながらも、すでに国民国家を超えてしまう意味が含まれる。

こうした呼びかけが行われるようになったのは、そもそも国境を超えた人やモノや情報の行き来が頻繁になり、国境が外からの侵入を防ぐ殻ではなく、穴だらけの膜のようになっているからである。多くの日本人が海外に出て、異文化、異民族に接触する。また、日本から一歩も出なくても、異文化や異民族が向うからやってきて、我々の生活圏の一部を構成してしまう。

国家の枠を越えた交流が増大して国民国家の自律性が損なわれる現象を、今日では「グローバル化」と呼んでいるのだが、日本では「国際化」にすでにこの「グローバル化」の意味が含まれていた。だから、日本においては「国際化」と「グローバル化」はほぼ同義に使われている。国際的なものが好きな人はグローバルなものも好きだし、嫌いな人はどちらも嫌いである。

なぜわが国において国際化とグローバル化の区別が曖昧になってしまったかというと、それには理由があると思う。日本が狭い意味で「国際関係」、つまり主権国家間のおつき合いの仲間入りしたのは、まさに国民国家の形成を通じてである。西洋列強との出会いに衝撃を受け、自らの自己理解と他の諸国との関係を見なおすことにより、日本は「国際化」したのである。とすると、この国民国家の形成は、まさに文化や民族の境界線を越える新しい文化の流入や人の交流を通じて行われたことになる。今の内と外の区別が出来上がるのは、この区別を越えたところに生じた交流の結果であり、原因ではない。つまり、日本が国民国家になったのは最初からグローバル化を通じてなのである。

こうして考えると、今日、グローバル化と国民国家を対立するものとしてだけ考える見方が、いかに一面的なものであるかがわかる。同質的な国民文化とか単一民族という考え自体が、グローバルな人的・文化的交流の賜物なのであり、放っておかれても自然にそんなものが出来たはずだとはいえない。

真の「国際関係論」とは、国民国家を所与のものとして考えずに、それを多様な文化・民族的な背景を持つ人々の関係のなかに位置づけていくものでなければならない。日本語の「国際化」の意味が英語の意味に対応していないからといって嘆くには及ばない。むしろ、世界の田舎者の問題意識を等閑に付していた「国際関係論」の方に問題があった。
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