mixiユーザー(id:345319)

2017年10月29日14:36

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ネット世代のしらべもの

先日、あるコミュで政治の問題について多くの人々に意見を求める機会があった。面白いやりとりができて有意義だったのだが、ちょっと面食らうこともあった。オマエの話はあまりに学問的でない、悪質なデマと変わらんではないか、というお咎めを一部の先輩方から受けてしまったのだ。

言訳をすれば、私としては、あまり学問的な話をして一般の人を議論から遠ざけないように余計に気を使ったつもりであった。専門化が進んだ学問の世界では、私などが抱くような疑問は大雑把すぎるらしく、前置きばかりが長くてはっきりとした答えが返ってこない。こんな質問は学者に聞くよりも、我々自身で判断し解決することになっているようなのである。

そこで、学問にどっぷりつかった人間が学問的ではない話を聞きに行ったところが、思わぬところに学問の擁護者を自認する方々を見出して苦笑するはめになったのである。

そんな学問が何の役に立つかという問いに内心居心地の悪い思いをしている学者にとっては、それはそれでうれしい話ともなりえるのだが、ただ、その人たちのいう「学問」というのがちょっと私の知っている「学問」とは別物なのである。

長い話を短くすれば、主張の前提や根拠として「学問的な定義」とか「客観的な事実」を示せという話である。大袈裟な用語の問題は別として、当然といえば当然な言い分である。ただ、「学問的」とか「客観的」と彼らが呼ぶものは、ウィキペディアの記事であったりYouTube動画であったりするのが解せないのである。

尋ねてみても答えが返ってこないので想像に頼るしかないが、何か疑問があったときにググって最初に目につきそうなものをもって「学問的」なり「客観的」なりと判断しているようである。これだけでも、ネットをソースとして使うときは気をつけろよと学生に口を酸っぱくして指導している人々を複雑な気持ちにさせるには十分である。検索してその収穫を張り付ける手間は厭わない代わりに、解釈は読む方に任せたまま、学問的な話をするならこれくらいは調べないとね、などと自画自賛しているのがまた可笑しい。

私の世代であると、インターネットで入手できる情報はあてにならんという意識がまだ残っているが、ネットとともに育った世代には、むしろ誰が書いたのかわからんような記事の方がより客観的と映るらしいのである。

引っ張ってくる記事は匿名とは限らんのであるが、検索で上位にかかるような記事は、個人の主観的な判断ではなく、何らかのアルゴリズムなり市場の原理なりで、多くの人にとって有用である、少なくとも間違ってはないと判断されているということなのかもしれない。それでネットで広く受け容れられている話とかみ合わないものは、客観的でも学問的でもないということになる。

でも、ネットに文字になっているものでも、やはり誰かがどこかで書いたものである。また、書かれたもののうちどれが人目に付くべきかを判断しているのは機械かもしれんが、それもまた人が何らかの基準を設定してやらせているのである。主観・客観という哲学用語の意味をどんなにひろげてみても、そんなものが客観である可能性ははじめから無い。

ネットというものが普及する前は、調べものにはそれなりに手間暇がかかった。図書館に行って文献を探したり、人に話を聴きに行ったり、なんてことが必要となったわけだ。それが今では、机の前に座ったままで調べられることが増えた。ネットにはいろいろ功罪もあろうが、これは人類にとっての何よりの恩沢であり、私もその享受者である。

でも、それを過信しすぎると、こんな勘違いも起こるようである。

そもそも、ネットでの議論で声のでかい人は、一日中常駐している人が多いように見うけられる。そんな人が、本で調べものをしたり人に話を聴いたりする機会を多くもっているとは思われない。結局、わからんことは座ったままでちょこっと検索して、そこで得られる情報で自足しているものと思う。

しかし、他のメディアと比較してネットよいところは、その敷居が低いことである。ウィキペディアなどの強みは、特定のエライ学者さんがこれはこうだと決めてしまわずに、多くの人の意見を反映できる点にあるはずだ。そのために、異なる意見が割拠したり、合意ができても最大公約数的なことしか書かれないという弊害はあるが、多様な見解に開かれているというのが利点なわけだ。決して、今の書かれているもの以外は口にするのも怪しからんという風な使い方が期待されているとは思えない。これはウィキペディアに限らず、ネット全体にも言えると思う。

今現在ネットに存在しないものなど、必ず誰かの「主観」であり、学問的定義でも客観的事実でもないなどと思われたのでは、学問などなりたつ余地はない。学者など養成せずに検索エンジンに任せておけばよろしい。情報過多の時代とはいえ、恐ろしく大胆な時間と思考の節約法を採用したものであるが、これではネットも狭い世間の一部にしかならない。

聞いた話によると、どこのコミュでも怪しげな情報や見解を押売りする連中が「荒らし」に来るので、余計にコンキョに神経質にならざるを得ないという同情すべき事情もあるらしい。むしろ、ガクモンテキなコンキョにこだわる人たちはネット世界では良心的な種族に属するらしいのである。

でも、「〇〇新聞」とかの記事を鵜呑みにするなと常日頃うるさい方々にしては、たいそう粗末なメディア・リテラシー論である。どう少なく見積もっても、我々凡人の臆断を云々する前に、たまにはその椅子から腰を上げてみて、もう少し広い世間に目を向けてみると、ネット世間の長所も短所も見えてくるのでは、と言いたくなっても大きなお咎めはないと思う。私もネット利用者であり利害関係者でもあるので、必ずしも老婆心ばかりからの忠言ではない。
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