私の母方の曾祖父は三春の旧家の次男である。母の家は代々男子に恵まれない家系で、婿に取られたのだが、この曾祖父が無類の魚好きであったらしい。山育ちなので、魚を口にするのは一年のうちでも盆や正月など限られた機会しかない。子供の頃からそれを楽しみにしているうちに、自然と魚好きになったらしい。
今でこそ山奥の旅館でも刺身が出ないともてなされた気分がしないことになったが、冷蔵設備が普及する前にそんな風習があった心配はない。海から魚売りが干したイワシとか塩サバなんかを売りに来るのを待たねばならなかった。
磐城の山奥だから魚売りもそうそうまわってこなかったのだなと思っていたのだが、どうやら、目でたい日にしか魚が食えない一方で、目でたい日には是非とも魚を食わんとならん理由もあったらしい。母の実家の福島では、大晦日には鮭を食べる。食べたいから食べるのであるが、同時に食べなければならないのである。新潟でも鮭であったと思うが、信州の松本ではサバであるそうだ。
贈答品につける熨斗というものは、今では黄色い紙で代用するのだが、もとはアワビを干したものをひきのばして使っていた。かつてはこれを実際に食ったらしい。しかし、贈答品の中身が海のものである場合はこれをつけなくてもよいのである。要するに、めでたい機会に贈り物をする際に、何か海のものを付けずにはすまされなかったのである。
母の実家は福島の郡山市である。今では人口で仙台に次ぐ東北第二位の都市になったが、維新当時は荒れ地であったところを、猪苗代湖から水を引いてきて、職を失った全国の武士を集め開墾させた土地の一つである。米沢藩のエライ家柄の中条政恒(作家の宮本百合子の祖父にあたる)が大久保利通を説得して実現した明治初期の大事業であった。
先日読んだ記事によると、この郡山市の名産として鯉を売り出そうという話になったらしい。鯉の生産では全国有数なのであるが、県外には知られていない。それだけではなく、地元の人ももう鯉を食わなくなって久しいらしい。元は繭をとった後の蚕を餌にして始められた事業らしいので、歴史は古くない。しかし、海から遠い内陸に移住させられた人々が、何とかしてサカナをという気持ちがあったからこそ始められた事業ではないかと思う。
サカナの古い呼び名はイヲとかウヲらしい。それがサカナにとって代わられたのは、酒の席のナ、すなわち酒といっしょに食するものにはやはり海のものが欠かせないという気持ちがあり、この酒菜の代表格というのが、他の肴を押しのけて名前を自分のものにしてしまったらしい。酒の肴は、この起源が忘れられて二重にサケを冠してしまっている。そして、既に料理されたものの名の印象があまりに強かったらしく、まだ生きて動いているものまでもこの名で呼ぶことになったのである。
酒の出るようなめでたい日にはナマグサものを食わずには済まされんという気持ちは、名前をみてもわかるわけだ。そうして、酒宴が日常に拡散する以前には、酒を飲む機会というのは、神をお迎えする大事な日に限られていた。どうも、神を迎えるに当たって欠かせないのは、酒や白餅、団子だけではなかったようだ。
普段は山の物で満足している村々であっても、このマツリの日のみはナマグサものがないと困る。祭日が近くなると、どこからこの海のものを入手するかというのが主婦が気苦労にもなる。魚売りもこうした時期を狙って、恐らく山村にまで足を延ばしたのである。祭日の楽しさと珍しい魚の味とが相まって記憶に残り、私の曾祖父のような魚好きを増やしたのである。
今日でも、われわれは刺身をご馳走だと思い、何かを祝う際には鮨などを注文する人が多い。居酒屋に行けば、普段はハンバーグだの牛丼を食する人も、何かナマグサものを食わずにはいられない。それでいて、なぜかと問われれば、日本人だからサと澄ましている。
しかし、我々の親々が暇と金に飽かして遠方から珍味を取り寄せて喜ぶような人々であったはずはない。日本人が魚を好むという当たり前の事実にでさえ、好奇心と味覚以上の複雑な心理が働いていたのである。この心理を理解しないままに語られる日本が我々の知っているところの日本である気遣いはない。
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