「若さ」第505号
※ 四方山話 ※
◎ 三連休の天気 ◎
秋の行楽シーズンですが、台風17号の北上・接近が報じられ、秋雨前線との関連で全国的に3連休(土・日・月)は荒れ模様のようです。
17号について21日朝の推定で、975hPa、大型で最大風速30m/s、瞬間最大45m/s。沖縄南東を北北西に25km/hで進んでいます。
21日、沖縄本島渡嘉敷島で、47.7mを観測しています。
今後、北東へ進み本州南岸の秋雨前線を押上げながら22日には九州西岸から日本海へと進むものと推測されています。
特に9日の15号台風で被災した千葉県南房総地域などでは未だ停電が続いており、風雨対策が整っていない情況の中で無情の3連休となりそうです。
関東地方では、20日・金曜日は全国的に晴れましたが、21日(土)〜23日(月)は、雨の予報が多くなっています。
東京 : 21日、曇のち雨(19〜22度)。 22日、雨(18〜24度)。 23日、曇り一時雨(21〜29度)。
神奈川 : 21日、雨時々曇(19〜21度)。 22日、雨(19〜23度)。 23日、雨のち晴(21〜28度)。
千葉 : 21日、曇のち雨(21〜24度)。 22日、雨時々曇(22〜24度)。 23日、晴一時雨(23〜28度)。
先の台風15号(右半円)の直撃を受けた南房総地域の情況をTV等で見ていると、未だ倒木の処理や配線・送電工事が続いており、一面がブルーシート屋根といった地域がみられます。
20日16時現在、千葉県で約1万1900戸が未だ停電しており(東日本大震災に次ぐ長期間)、断水も2,255戸となっています。
連日、新聞・ラジオでは被災地域の支援情報がありますが、停電2週間以上という状況は経験したこともありません。
連日、各地域の連絡場所(電話)と「給水」「充電」「入浴」「物資の配付」のお知らせが掲載されています。
9日未明には南房総・館山市で52mの最大瞬間風速(観測史上最大)を観測していますが、高圧送電塔の倒れた山上や洋上ではそれ以上の強風が吹き荒れたものと考えられます。 私ごとですが、3連休には長野から新鮮な魚を食べるのが楽しみで来客があり、実は「館山」へと考えていました。残念ながら館山へは行けませんが、今回は茨城方面へと考えています。
〇 大相撲の混戦 〇
横綱白鵬、鶴竜の休場で華のセレモニー土俵入りもなく、重みのない秋場所とも言えますが、連日“満員御礼”となっています。
先週のTV視聴率も15位までに5回も入っています。
次代を担う若手の熱戦が面白いのか、カド番大関の緊張感や急成長の若手力士の激戦が見物です。
特に初優勝で大関に上がった貴景勝が、負越しと休場で関脇に落ちて、今場所10勝以上で大関復帰というのも注目でした。
貴景勝は12日目で10勝挙げて大関復帰を決め、単独首位で2度目の優勝かと思われていましたが、12日目にカド番脱出を決めた大関豪栄道が、13日目に貴景勝に勝ました。
これにより、後2日を残して10勝3敗が4人、9勝4敗が5人という混戦となりました。
先ず優勝の行方は、3敗力士かと思いますが、関脇:貴景勝と御嶽海、前頭8枚目・隠岐海(元関脇)と16枚目・豊山です。
カド番大関の栃ノ心は6勝7敗で、残り2日を連勝しなければ陥落という崖っぷちです。
この緊張感が場所を支える人気(視聴率)にもなっているのでしょう。
日本の文豪
(第2回)
読書の秋を前に小2の孫へ送った手紙(資料)ですが、改めて調べて知った事柄も多いので参考までに載せておきます。あと1〜2回あるかと思います。
夏目漱石 なつめ そうせき
慶応3年(1867)2月9日〜
大正5年(1916)12月9日 49歳・没。
江戸牛込馬場下横町生まれ(現・新宿区喜久井町)。本名:夏目金之助。
父:夏目小兵衛直克(51歳)・町名主の権力者。 母:千枝(42歳)。8番目の子で、生後1年から里子に出され三つの家(6人の親)をたらい回しとなっていた。
非行に走ることなく文学者となれたのは、「志を同じくする友人達との交流だった」(諸富祥彦明治大学教授)。
明治17年(1884)17歳。 大学予備門(後・第一高等中学校)に入学、ここで正岡子規と出会い、友情を深め文学的・人間的影響を受けた。
学業に励みほとんどの教科で首席となり、特に英語は突出していた。
明治22年(1889)子規の数多いペンネームのうちから「漱石」を譲り受ける。
9月に房州(房総半島)を旅した(野田市に利根川から上陸宿泊した家が現存する)紀行「木屑録」の批評を子規に求めるなど、子規との交流は深まる。
明治23年・帝国大学文科大学(東京大学英文学科)入学、明治26年卒業(26歳)。
東京高等師範学校、28年・松山の尋常中学校英語教師、正岡子規と俳句に精進。
29年・第五高等学校(後の熊本大学)の教師、貴族院書記官長中根重一の長女・鏡子と結婚。
明治33年(1900)英国留学(33歳)、英文学に励む一方で化学の研究に没頭(明治35年、正岡子規・没)、文部省は急きょ帰国を命じ、36年に帰国。
第一高等学校(後の東京大学)で英文科講師になるが、硬い講義が生徒に不評で神経衰弱を再発。
当時子規の遺志を継いで「ホトトギス」を経営していた高浜虚子は、漱石に小説を書くように勧めた。
これが漱石の処女作「我輩は猫である」(明治38年・1905)を発表となった。
「坊っちゃん」、「草枕」(明治39年)を発表。(明治40年)教師を辞めて朝日新聞社に入社。
「虞美人草」「三四郎」などを発表。
大正5年12月9日、「明暗」の連載中に胃潰瘍で死去した。
正岡子規 まさおか しき
慶応3年(1867)9月17日〜
明治35年(1902)9月19日 35歳・没。
伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市)生まれ。 本名:正岡常規則。
明治16年(1883)松山中学を退学し上京(16歳)。 17年9月、東京大学予備門(後・第一高等中学校)に入学。同級に夏目漱石らがいた(18歳)。
21年7月、第一高等中学校予科を卒業。「七草集」を執筆。 8月鎌倉で初めて喀血。
21年9月、本科に進学。 本郷区真砂町の常盤会寄宿舎に入る。
22年(1889)1月、夏目漱石との交友始まる。
5月、喀血が一週間ほど続く。 時鳥(ほととぎす)の句を50句ほど作り、 初めて「子規」と号す。
12月、「ボール会」を設立。上野公園で2回ほどベースボールを行う。
23年、23歳。7月、東京第一高等中学校本科を卒業。 9月、文科大学哲学科入学。
幸田露伴に傾倒。25年2月、25歳。
小説「月の都」を持って幸田露伴を訪ねるも、好評を得られず小説家を断念。
6月、「獺祭書屋俳話ダッサイショオクハイワ」を「日本」に連載・俳句の革新。
12月、日本新聞に入社。 明治26年、27歳。2月・上根岸の現・子規庵に転居。
「小日本」を創刊、編集責任者となり小説「月の都」を連載。
7月、「小日本」の廃刊で「日本」の編集に復帰。
28年、28歳。4月・日清戦争従軍記者として、中国遼東半島・金州、旅順に赴く(陣中日記)。金州で従軍中の森鴎外を訪ねる(5月10日、日清戦争講話)。
5月17日、帰国の船中で喀血、23日・神戸病院(一時重体)虚子、碧梧桐、母・八重が看病。7月・須磨保養院、8月20日退院。
8月〜松山・漱石の下宿(愚陀仏庵)で過ごし、漱石も加わって連日句会を開く。
10月、松山を離れて広島、大阪、奈良を経て帰郷。
明治29年、29歳。1月・子規庵で句会、漱石、鷗外(2回から)が出席。
1月、鷗外主宰の「めさまし草」創刊。 子規ら日本派(写実主義)の句を掲載。
9月、与謝野鉄幹ら新体詩人の会に出席。 子規の新俳句が広く認められる。
明治30年、30歳。31年、松山の極堂が「ほとゝぎす」を創刊。子規が募集俳句の選者となる。
33年8月ロンドン留学が決まった漱石が寺田寅彦と子規を訪ねる。
11月、静養に専念するため、子規庵での句会、歌会を中止。
34年11月6日夜、ロンドンの漱石宛「僕ハモーダメニナッテシマッタ・・・君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ」と手紙を書く(34歳)。
35年(1902)、病状悪化。 3月末より、左千夫、秀真、森田義郎、虚子、碧梧桐、鼠骨が交代で看病に当たる。
5月「病状六尺」を「日本」に連載、死の2日前まで続く。
9月10日、子規の枕元で最後の蕪村句集輪講会開く。
14日、虚子が「九月十四日の朝」を口述筆記する。
18日、絶筆糸瓜三句を記す。
35年9月19日午前1時ごろ死去(35歳)。戒名:子規居士。田端の大龍寺に埋葬されました。
※ 今日は何の日 ※
21日 昭和9年(1934)室戸台風。高知県室戸市へ上陸し京阪神で被害。11.6Hpa、最大60m/s。死者2702人、不明334人、計3046人。昭和の3大台風(20.9.12.枕崎。34.9.26.伊勢湾)。
21日 平成22年(2010) 郵便不正事件で大阪地検・特捜部・主任検事前田恒彦(43歳)を証拠隠滅(FD日付改ざん)で逮捕。異例の最高検捜査。
22日 明治元年(1868)会津若松城(鶴ヶ城)が新政府軍に降伏開城。白虎隊隊(全343人・大半は城内で戦死)の少年20人が飯盛山で自刃。
23日 秋分の日(二十四節気)昭和23年制定の祝日(9月22日か23日)。
24日 明治10年(1877)西郷隆盛、西南戦争に敗れ鹿児島城山で自決。50歳。
24日 平成20年(2008) 麻生太郎(自民党) 内閣発足。
24日 平成22年(2010) 尖閣諸島侵犯、公務執行妨害の中国漁船船長を処分保留のままで釈放(即日帰国)。7日逮捕・拘留延長後に突如。那覇地検独自の判断を強調。政府はこれを了とする。仙谷官房長官・総理臨時代理(総理、前原外務は渡米中)。
25日 平成17年(2005) 05年日本国際博覧会(愛・地球博)閉会。愛知県で3/25から185日間。入場者22,049,544人(目標1500万人)。
26日 明治37年(1904)小説家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)死去53歳。
26日 昭和26年(1951)伊勢湾台風。潮岬へ上陸し伊勢湾へ。九州を除く全土に被害。895Hpa、最大75m/s。死者4697人、不明401人、計5098人。昭和の3大台風(9年・室戸台風、20年・枕崎台風)。
26日 昭和29年(1954) 青函連絡船「洞爺丸」4,337総トンが、台風15号(台風マリー)のため、函館港外で避泊中に走錨・浸水、七重浜で座礁転覆。乗客など1,155人死亡。なお、同台風下で青函連絡船「第11青函丸」3,143総トン、「北見丸」2,928総トン、「日高丸」2,932総トン、「十勝丸」2,912総トンも遭難し5隻合わせて、乗客など1,430人死。
26日 平成18年(2006) 安倍晋三(自民党) 内閣発足。
26日 平成19年(2007) 福田康夫(自民党) 内閣発足。
27日 大正14年(1925) 日本初の地下鉄、銀座線起工式・上野〜浅草間2.2km(同区間の開業は、昭和2年1927・12月30日)。
27日 大正14年(1980) 世界観光の日(WorldTourismDay)を制定。
27日 平成22年(2010) テニスのクルム(伊達)公子がシャラポアを下す。
27日 平成26年(2014) 御嶽山(3067m)が11:53噴火。最悪の条件:晴天・土曜日の昼(7合目までロープウエイ・日帰りコース)・死者58人。不明5人(27年7月31日現在)。水蒸気爆発。東日本大震災が遠因の可能性もあるという。27年6月6日、ロープウェイ運行開始。7月31日死
者1人を発見。
※ 季節の句 ※
秋の燈や ゆかしき奈良の 道具市 与謝蕪村
海を見る ただそれだけの 夕涼み 藤島光一
空の日や 並ぶ二本の 飛行雲 若さ
以上・「若さ」第505号
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