１枚目 真宗寺（「破戒」では蓮華寺）
２枚目 大谷探検隊
３枚目 岡野貞一（左）と高野辰之
主要登場人物
井上家（浄土真宗西本願寺派 真宗寺）長野県飯山市 関係
井上寂英（1842−1916）真宗寺住職23世、
井上よしえ（1841−1925）男まさりの寂英の妻
井上弘円（1872−1945）長男（真宗寺24世）、武子の父、大谷光瑞探検隊に参加
女が続いて生まれ、最後にやっと25世になる男子が生まれる。
藤井（井上）瑞枝（1870−1924）寂英の長女、その才能を認めた母の手で、11歳（明治14年）で上京して跡見女学校に入学。キャリアウーマンを目指したが働く場所がなく、藤井宣正の妻となった。
高野（井上）鶴枝（1880−1954）次女、母の手で、学齢前に英語教育のために地震学者ジョン・ミルンに預けられる。17歳で高野辰之と結婚。
原田（井上）武子（1911−1994）井上弘円の娘、上海で大谷光瑞の秘書となる。ミス上海にもなった美人。高野辰之の姪。本書の執筆のために訪れた猪瀬に協力した。
高野弘子 弘円の娘、武子の二歳上の姉。高野辰之の養女となる。
藤井宣正（1859−1903）新潟県の末寺の生まれだが、その秀才ぶりで本山（龍谷大学）に呼び寄せられた。仏教学者。持病の結核を抱えたまま、41歳で妻・瑞枝を残して英国に渡る。そこで大谷探検隊に加わってインドに渡るも、その後結核が悪化し、英国に戻る途中のマルセイユで死去。
高野辰之（1876−1947）国文学者。飯山高等小学校の時の冬期と母校の教師の時に真宗寺に下宿。上京して文部省の下級官吏となり文部省唱歌の作詞家となる。井上鶴江と結婚したが、子どもができず、武子の２歳上の姉、弘子を養女にもらう。（春の小川は辰之が弘子を連れて代々木（宇田川町）の用水路あたりを散歩していた時に作詞した）
岡野貞一（1878−1941）作曲家、鳥取県の没落士族。キリスト教会に引き取られ讃美歌接して東京音楽学校に入学した。高野辰之とのコンビで文部省唱歌を作曲。
島崎藤村（1872−1943）詩人。小説家。小諸義塾教師の時に、蓮華寺を訪れて藤井宣正のハガキを見せられ、小説「椰子の葉陰」を書く。「千曲川のスケッチ」とともに、「破戒」への跳躍台になった。「千曲川」では尊敬されている真宗寺の住職を、「破戒」では養女に手を付けた人物と書いて、井上家から恨まれる。
大谷光瑞（1876−1948）西本願寺第二十二世門主、大正天皇の義兄。三回にわたりシルクロード探検隊を派遣。その浪費癖がもとで引退させられるが、仏教を柱としたアジア主義を提唱した。
１．猪瀬の調査開始の動機は藤村であって、文部省唱歌ではなかった。
「千曲川旅情の歌」 （藤村29歳 1900年）
「小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
・・・
濁り酒濁れる飲みて・・・」
この「濁る」の過剰に強い響きは何なのか？
「落梅集」を最後に散文へ移っていったのだが、実質的な処女作「破戒」の前に何があったのか明らかにしたい。という著者の疑問から本書の調査が開始されたとのこと。
藤村の飯山旅行の１回目は、明治35年秋頃1902年 美術教師丸山晩霞「美術教師」のモデルと共に。
２回目は、明治37年1904年１月 教師になるための講習を受ける女学生を連れて下宿先の真宗寺を訪問した。当時の女学生の回想によると、教師としてではなく、馬子のような姿で、女子学生のお付きを装っていた、とのこと。
その真宗寺で藤村は藤井宣正が義父の住職にあてたハガキを見せられる。
宣正が最後のハガキを書いたのが明治36年４月
このハガキを元に書いた小説が「椰子の葉陰」である。
それ以前に、明治30年 柳田国男が藤村に伊良湖崎でみた椰子の実のことを教えた。
この二つのエピソードを元に「椰子の実」が書かれた。
「名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ」
★海風：
ここでもどかしいのは、いつ藤村は藤井宣正のハガキを見せてもらったのか、ということである。著者の猪瀬は、女学生を連れた２回目の飯山行きの時だというのだが、それならなぜ馬子の格好をして、女学生に教師だと明かすなと言ったのか？
下宿人を連れて来た学校の先生に、大谷探検隊で活躍した娘婿のハガキを見せるのは分かる。しかし、馬子に、なぜ？ まあ、結局、隠していたのがバレて、先生どうぞと招き入れられたのが成り行きだったと考えるしかないんだが。
藤村は時々引っ込み思案になったりしたり、妙なことをすると理解するしかない。伝記を見てもそのようだし。
２．武子は文部省唱歌「朧月夜」の作詞者が伯父（高野辰之）であることを猪瀬に告げた。
光瑞は、仏教遺跡が欧州諸国に探検されていることを無念とし、仏教国の日本こそなすべきことだと考えていた。その事業を支える人材を本山に集めた。井上弘円や藤井宣正もそうだが、仏教学者の島地黙頼もそうだった。
島地は西本願寺に議会制を導入し、女子教育の必要性を訴えていて、真宗寺の瑞枝を跡見女学校に入学させたのも彼である。なお、瑞枝の跡見女学校への入学は明治14年であったが、跡見花蹊（かけい 教育者、日本画家）による東京神田での創立は明治８年だった。日本最初の女学校である。
花蹊は大阪の人で、父の観学塾を19歳で継いでいたのだが、姉小路家に仕えていた父の東京への移動に伴って、東京に女学校を創立した。明治天皇の美子皇后から女子教育を依頼されたからだとのこと。
武子は飯山小学校で「故郷」「紅葉」を習ったが、それが叔父の作とは知らなかったという。当時、鉄道が引かれ、故郷を出て東京へ向かう手段ができた。東京やさらに外国へ出かけた彼らにとって「ふるさと」とは何か？
ここで、猪瀬の調査の方向性が決まった。
�〆邏焚箸硫�野貞一は、クリスチャンで、讃美歌の影響を受けている。
「故郷」と「讃美歌126番風激しく、第475番浮世の旅」は似ている。
貞一の八歳上の姉・寿美明治３年生、明治23年鳥取市の教会で受洗。26年に岡山市の教会に転出した。
２2歳の時、岡山教会で小野田伊之吉（薇陽学院創設者の一人、33歳）と結婚。母と弟を呼び寄せる。井上瑞枝と同い年であり、彼女も勉強のために13歳で鳥取を出ている。
�∧孤�省唱歌は、日本古来から親しまれた五音階を、義務教育の小学生の時に七音階へ変えようとしたもの。歌の革命である。
そして文部省が主導した唱歌は、民間で、一層親しまれた野口雨情などの童謡へと移った。
結局、唱歌は辰之と岡野貞一コンビのものが、作詞作曲不明のまま長く残ったのである。
�０貶�、武子は秘書部の５歳下の原田和布と結婚し、もう一度上海に戻りたいと願って、昭和14年 武子28歳と和布24歳は、しぶる光瑞の許可を得て上海の華中鉄道へ仕事を得た。
敗戦で青酸カリが配られたが、生きる決意をして１年後復員船で帰国した。
光瑞は20年４月、病を抱えながら、敗戦の濃厚な中、周囲の反対を押し切って、シナで骨をうずめると言って奉天に渡った。
そして、22年に復員船で帰国し、23年別府の温泉で療養中に死去した。
夢は今も廻りて、忘れがたき故郷。
★海風：
文部省唱歌の作詞作曲者名は、戦後になって公開されたとのこと。
ただ、その人物像については、本人自体が家族にさえ語らないこともあって、知られていなかったらしい。高野辰之氏はもともとそれが本職だとは思っていなかったし、岡野貞一氏は謙虚な人だったとのことで、周囲に語ることもなかった。ということで、二人ともそんなことで、第三者が伝記のようなものを書く雰囲気ではなかった。もとより資料もないわけだし。
本書がなったのは、藤村の心の葛藤を追っていた著者が、偶然、事情を良く知る井上武子に会ったからで、こんなことにノンフィクション作家のだいご味があるに違いない。
★うみかぜ：まとめ
最初の著者猪瀬の疑問は、藤村の「濁り酒濁れる飲みて」の、胃に応えるような違和感をなぜ旅人の遊子（藤村）が歌わねばならなかったのか、ということだった。
明治維新になって、屯田兵制度ができて、北海道へ渡ったり、鉄道の延長と共にともに東京など大都市を目指した。
福沢諭吉の学問ノススメも、当然、大学や高等商業などのある大都市を目指すことになる。その際、一族の期待を受けて、となるだろうし、失敗もある。
それが、「濁り酒濁れる飲みて」になるのだろうか？
確かに、藤村の場合、小諸義塾で詩を書いている限り、没落していく一族を助ける足しにはならない。そして、ついに明治39年35歳で「破戒」を出版して作家の地位を確立した。しかし、一方では兄の娘と恋愛関係になりフランスへ出奔することとなる。これでは、フィクションのはずの蓮華寺の住職の養女スキャンダルを自己実現したようなものである。
大谷光瑞の探検隊は業績を上げたし、探検大学と言われた京都大学にも影響を与えたに違いないし、千里が丘の「国立民族学博物館」に結実したとも言えるはずだが、壮大な光瑞の構想から見れば濁り酒を飲まされたようなものだろう。
野心家だった高野辰之は、国文学の業績でではなく、余技のような文部省唱歌の作詞者として記念館が作られている。複雑な心境に違いない。
一方、岡野貞一の場合も唱歌の記念館があるが、本職の方では東京音大の教授となり、本郷中央教会のオルガニストとして平穏な生涯だったようである。と言うか、猪瀬が遺族から話を聞いても、あまりエピソードがなかったらしいのである。
最後に原田（井上）武子であるが、光瑞の幻想と狂気のような野心から離れたのは正解だったろう。それでも、上海によほどの愛着があったのだろう。それが敗戦で離れざるを得なくなってしまった。そして、戦後の生活への言及はなかった。むろん、彼女には真宗寺という故郷があったわけだが。
真宗寺は藤村の遺族と和解し、蓮華寺の故地としての碑が立っている。飯坂観光に是非ということで、地元民の要請があったようである。西本願寺も民主主義となり、優秀な人材を一本釣りする光瑞のような門主の出現する余地はなくなった。
むろん、戦後の日本も高度成長と集団就職による大移動があって、故郷の歌はなお存在理由がある。
また、なんでこんなところに人が住むのか、というような集落があるが、本書でも、岡野家の移動を追って、鳥取から岡山へ移動したのだろう猪瀬も、山道を行けば、集落があり、又山道となり、を繰り返すと観察しているが、私の経験でも全くその通りであった。これからも廃村と都会への移動が続く。
ログインしてコメントを確認・投稿する