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2012年09月15日16:51

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ファンタジーの往還(6)  日常の魔法の行方

 神宮輝夫「児童文学の中の子ども」NHKブックス1979 は、ファンタジーと児童像の変遷を論じたものである。ファンタジーは児童文学の中のジャンルで、児童像は全体の中でもので、バランスが取れていないし、筋がつかみにくいのだが、多分、別々での発表を一つにまとめたからこうなったのだろう。
 著者は1932年生で、青山学院大学名誉教授、多数の翻訳がある。

 1960年代は世界的にリアリズムの傾向が強かったが、少ない中でファンタジー分野では、19世紀末から20世紀前半に続出した日常生活での不思議(日常の魔法everyday magic)が衰え、神話や伝説を下敷きにした神秘的空想(叙事詩的ファンタジー)が復活した、という。
 日常の魔法の例として、「メアリー・ポピンズ」1934、「床下の小人たち」1952 があり、叙事詩的ファンタジーはトールキン「指輪物語」1951 がある。

 日常の魔法の始まりは、モルズワース夫人「カッコウ時計」1877、ネスビット「砂の妖精」1902 などだとのことであるが、技術の進歩と社会の発展という楽観論を背景にしたものであって、第二次大戦を経ることで、人間および社会の見直しをせざるを得なくなりノートン「床下の小人たち」が書かれ、魔力を制御できなくなったことを思い知らされ、ボストン「グリーン・ノウの魔女」1964 が書かれた、とのことである。
 こういうジャンル分けがあることを初めて知ったが、これこそ藤子・F・不二雄「ドラえもん」1970-1995連載 ではないか。それに子供の頃のラジオドラマであるが、お父さんのパイプを口にくわえると、パイプが魔法で望みをかなえてくれる、というものがあった。言われてみれば「砂の妖精」と同じだった。
 しかしこれが「床下の小人たち」シリーズと同じと言われると、いささか不審な気がする。これは明らかに異文化との共生をテーマとしたものであろう。小人の目から見た古い屋敷、家具それに原っぱや川などが新鮮であり魅かれるところであるが、望みをかなえる魔法はない。
 それと、「ドラえもん」をみるとこのジャンルが衰えたようにも見えない。

 叙事詩的ファンタジーであるが、これには従来から使われていたギリシャ・ローマ神話、北欧神話に中世騎士物語にくわえて、ウェールズ・ケルトの「マビノージョン」などのケルト神話やスコットランドの伝説、それにルイス「ナルニア国」にはキリスト教神話、アーシュラ・ルグイン「ゲド戦記」には中南米の伝承が使われるなど、神秘性が増し規模も大きくなっていて、従来の読者のみならずSFファンをも引きつけたとのことである。今ではさらにゲームファンも参入している。
 確かに、ギリシャ・ローマ神話はくっきりした地中海の明快さが売りであって、神秘性は薄い。その点、イギリスにはゴースト・ストーリーの霧が、特にアングロサクソン以前のケルト伝承には、漂っているように思える。
 ところで、このハイ・ファンタジーともいわれる新しいジャンルであるが、モチーフとしてケルト神話などを加えたという以上に、聖書にある神に使命を与えられ、その達成に邁進するという説話の筋が基本テーマになっているような気がしてならない。「指輪物語」などまさにそうだろう。
 「ゲド戦記」は最終的には日常世界へ戻る、というなんだか企業戦士の退職みたいで身につまされるが、村山知義「忍びの者」赤旗(1960-62)みたいでもあった。わたしは映画しか見ていないが。

 もう一つのテーマ、児童像の変化に移る。
 児童文学の児童観には二つの流れがあると言う。ジョン・ロックの認識は経験によって生じるという考え方で、子供に対しては教育・しつけとなって現れると言う。・・・それだけではないはず。それが精神の成長を描くリアリズムでもあるし教養小説的でもある。この例としては「若草物語」1868、「ハイジ」1880、「ピノッキオ」1883 があげられているが、これらは著者がいうようにただの教訓物語ではない。いずれも教養小説である。
 もう一つは、ロマン主義的人間観で、子供は不滅なものの近くにいると言う考え方である。その代表としてマーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」1876、「ハックルベリ・フィンの冒険」1884 があげられている。
 この二つの分け方は良いとして、著者の例は的外れではなかろうか。トムやハックが無邪気な少年とはとても思えないのだが。どちらも、アメリカ黒人民話「リーマスじいやの物語」のヒーローの生存本能にたけた、ずる賢いうさぎを思わせる。もちろん、トムやハックはその上で正義を選ぶために感動的なのだが。

 著者はどこかで言っていたが、児童文学を書くためには、子供時代の楽しさをよく覚えていること、そして子供が好きなことが条件だとのことである。そうでなければ、多分、ただの教訓物語かイデオロギーになってしまうのだと思う。児童文学とは子供と言う大人から見て異質な生物の、その生理生態に活動の発見の物語だと思える。
 今、子供のいじめが社会問題になっているが、これも何故いじめるのか、またなぜいじめられるままになっているのか、本当のところは分からないそうである。だいたい、本人にも分からないようだ。探求されるべき分野はまだまだ広いに違いない。
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