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2021年01月11日11:07

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慈覚大師(その25)

慈覚大師(その25)
第5章 有珠善光寺(その1)


北海道伊達市には「北海道最古の古刹・有珠善光寺」がある。


有珠善光寺は、平安時代の天長3年(826年)比叡山の僧であった円仁(慈覚大師)が胆振国有珠郡に堂宇を建て自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置したことが寺の開基とされている。

円仁が何故この地に有珠善光寺を創建したのか、その理由を考えてみたい。

まず私が述べたいのは、この地はアイヌの地であり、和人はいなかったのではないかという疑問である。

アイヌは形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。
本州以南が弥生時代に入った頃、北海道では、引き続き縄文文化を保持した人々と、本州の弥生文化を取り入れ、引き続き古墳時代、奈良時代、平安時代の文化を取り入れた人々に分かれた。前者がアイヌであり、後者が北海道の和人である。
北海道の伊達などの地域の人々は、本州の弥生文化を取り入れ、引き続き古墳時代、奈良時代、平安時代の文化を取り入れた人々であり、朝廷から見れば、関東以北の東国経営の対象であった。もちろんこの地でもアイヌと和人が混在していたが、東北のような朝廷を相手取っての反乱はなかった。朝廷に対する反乱さえなければ征伐する必要はなく、平和裡に治めるのが基本であり、事実、北海道征伐というようなものはない。
東北では、弥生時代以降坂上田村麻呂の東北征伐までアイヌと和人が混在していた。それらの人々は蝦夷と呼ばれた。阿弖流為は蝦夷のリーダーであったが、坂上田村麻呂に降伏してから、蝦夷は俘囚と呼ばれた。


次に、円仁は、何故はるばるこの地まで来て、有珠善光寺を創建できたのか? 平安時代に朝廷の力はこの地まで及んでいたのか、その疑問について考えてみよう。
奈良時代にすでに朝廷の勢力は北海道にまで及んでいたようだ。日本書紀に西暦659年に、阿部比羅夫が後方羊蹄(シリヘシ)に政庁を置いたと記されている。阿部比羅夫の北海道征伐については、それを詳しく書いたホームページがある。
http://www.shirakami.or.jp/~h-2666/noshiro-kodai/abehirafu.htm

それに基づいて、その要点を紹介しておきたい。
阿倍比羅夫の北征の目的はあくまで、蝦夷地を大和朝廷の支配領域に入れようとするものでこの齶田(飽田)・渟代の蝦夷はその大軍を見て怖れを為して蝦夷の首長の恩荷(オガ)は、阿倍比羅夫に降伏し、その際恩荷(オガ)は『齶田浦神』に誓った。「自分たちは弓矢をもっているが、日常肉食しているので、けものをとるためのものである。もし官軍に抵抗し弓矢を使用するためもっているのであれば、そのことはすべて齶田浦の神がお見通しになっているであろう。この神にかけて、朝廷に仕えまつる」と帰順した。この在地の神は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在した古四王神社であったらしいそうで古四王は、高志王・越王に通じるという。
阿倍比羅夫はこの恩荷に小乙上という官位を与え、ヌシロ(能代)・ツガル(津軽)の2郡の郡領に任命しております。
その3ケ月後斉明帝4年7月、200人あまりの蝦夷が朝廷に出むいて貢物をささげています。これを賞して、能代と津軽の蝦夷にそれぞれ位階をさずけ、旗、鼓、弓矢、鎧などを与えたと日本書紀は記している。
阿倍比羅夫は更に北上して有間浜(岩木川河口)に津軽や胆振金/且(いぶりさえ)の蝦夷達を集めて饗応をしている。また有間浜に、渡嶋(わたりしま)の蝦夷等を集めて饗応した。有間浜については諸説があるが津軽半島の十三湊に比定する説がもっとも有力である。「渡嶋」は北海道の南部を指すと思われる。

また、江別市など石狩の平野地帯の遺跡で発見されているもののひとつに「古墳」がある。道内では江別市・恵庭市にのみ発掘調査されている。古墳は道内にはないと思う方もいルカと思うが、擦文時代初期の8〜9世紀に作られたものが、小さいながらもあったようだ。サイズは高さ1m程度、長さも数m程度と小ぶりだが、副葬品は東北の古墳と極めて類似していると言われ、これは朝廷の勢力が北海道にまで及んでいた証拠である。

以上のことから考えて、平安時代には、北海道の伊達地方にも朝廷の力が及んでいたことは確かであろう。

桓武天皇の二代政策は、平安京の建設と東国経営であった。円仁は、重大な使命を帯びて伊達地方に赴き、有珠善光寺を創建したのだと思う。



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