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2020年07月24日10:31

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沖縄の歴史(その13)

沖縄の歴史(その13)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その4)
第4節 薩摩の侵攻とその後の琉球王国(その1)

1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになる。1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を琉球に送り返した。以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたが、王府は謝名親方の反日思想に引きずられ、幕府の要求を一貫して無視した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

第二尚氏第7代尚寧の時代、樺山久高ら島津軍3000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。1609年3月8日に奄美大島へ上陸した。奄美大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行った。この時点で琉球王府は天龍寺長老を奄美大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触できず失敗した。3月17日に徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧された。薩摩軍は3月26日、沖縄本島北部の運天港に到達。27日、今帰仁グスクに向かったが、既に無人であった。またこの日、西来院菊隠が今帰仁に到着、正式に降伏を申し出た。これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決定した。しかし樺山久高は内心、琉球を信用しておらず、念のため主力は陸路で首里に向かわせる事とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は陸路で首里へ向かい、午後2時頃到着した。那覇では和睦調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。最終的に、摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、5月半ばに尚寧と共に薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。薩摩藩主島津忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」などと述べた起請文への署名を強要され、これを拒んだ三司官のひとり謝名利山は処刑された。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。

こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。


以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させた。


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