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2019年02月22日08:45

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火祭り考2(その3)

火祭り考2(その3)

まず最初に、那智の火祭りの様子を見ていただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=E1K1XY1topQ

那智の火祭りは、熊野の12の神々が第一から第十二の扇神輿に乗って、年に一度、那智の滝に里帰りする神事。日本一の落差(133m)を誇る那智の滝の前で、燃え盛るたいまつを手に練り歩く、勇壮な火祭である。

扇神輿とは、一般的な神輿とはまったく違って、縦長の大きな旗のようなものである。扇神輿の特徴である扇は金地に朱で日の丸が描かれたもので、一体につき30面が取り付けられ、それら30面の他に半開きの2面を取り付ける。なぜこのような神輿が使われるのか、その謂れを知るには熊野信仰のことを深く理解せねばならない。

現在の熊野信仰は、熊野三所権現に対する信仰であって、始まったのは飛鳥時代の後だが、平安時代に盛んになった。しかし、熊野三所権現の名は、すべて記紀の神であり、記紀の神は後年の後付けだから、結局、熊野三所権現の元宮の様子は判らない。

しかし、熊野速玉大社の磐座信仰ははっきりしているし、熊野本宮大社についても、その奥の院・玉置神社の元は十津川村の磐座だというので、磐座信仰があったことは確かである。その時期ははっきりしないが、磐座信仰というのは、庶民の信仰というより、集落の長など権力者の信仰であると思われるので、弥生時代か古墳時代の頃ではなかろうかと思われる。おそらく縄文時代までは遡らない。 そう思うのは、縄文時代は、石棒信仰の時代と思われるからだ。

磐座信仰に続いてシラ信仰がある。シラ信仰とは、磐座信仰の変身である。神の名はない。熊野にはシラ信仰の痕跡は残っていないが、全国的な研究からシラ信仰があったと言われている

その後、固有名詞を持った神が出てくる。その名は、その土地の生活に基づく信仰の実態からくる。熊野三山では八咫烏である。その時期は飛鳥時代より古いと思われるが、おそらく磐座信仰の時代より遡らない。

石棒信仰、磐座信仰、シラ信仰、八咫烏信仰、熊野信仰と並べたとき、それらはおおむね縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と時代区分できればいいのだが、そうはいかない。石棒信仰、磐座信仰、シラ信仰、八咫烏信仰、熊野信仰の歴史的時期については、ほとんど判らないのである。これは何も熊野に限ってのことではない。全国どこでもそうなのだ。

この第3章は、那智の火祭りについて、その主役である松明の火のルーツを探ろうとするものである。ひょっとしたら、そのルーツは、那智の火祭りの前の信仰、八咫烏信仰、シラ信仰、磐座信仰にあるのかもしれないと思い、熊野信仰の歴史を調べてきた。しかし、それら熊野の古代信仰の中に火の要素はなかった。したがって、那智の火祭りの松明は、那智の火祭りが始めた人たちが考え出したものに違いない。その人たちというのは、修験行者である。すなわち、那智の火祭りの松明の起源は、修験道の儀式の中にあるに違いない。

那智の火祭りを考え出した修験者がどの系統の修験者であったにしろ、護摩供養の儀式が身についていたと考えて良い。

那智の滝のハイライトは、扇神輿が大門坂(飛龍参道)を下るところにある。すなわち、神々はその扇神輿に乗って那智の滝のところまで渡御されるのである。その渡御の道は清められなければならない。どうすればいいか? 修験者は考えたと思う。火だ!清めの火だ。その参道で護摩供養をするわけにはいかない。だとすれば松明を使おう。修験者はきっとそう考えたに違いない。これは私の推理にしか過ぎないが、いろいろと調べた挙句、他に、修験者と松明を結びつける根拠が見つからないので、そう考えざるをえない。

那智の火祭りの松明の起源は、修験道の護摩供養にある。言うなれば、修験道の護摩供養の変形が那智の火祭りだ。

以上のより詳しい内容は、次の論考・ 第3章「那智の火祭り」 をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hima03.pdf




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