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2018年01月05日09:01

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●何故 島原天草一揆は三ヶ月も持ったのか

●何故 島原天草一揆は三ヶ月も持ったのか
フンダンに軍資金を持ち外国から武器を買い一揆を起こした。
奴隷商人として日本人を奴隷にして外国へ売っていたから。
秀吉は怒って日本のキリスト教信者を弾圧した。
其れに逆らったのが 【天草四郎】である。

◆あまくさ‐しろう〔‐シラウ〕【天草四郎】
[1621〜1638]江戸初期のキリスト教信者。本名、益田時貞(ますだときさだ)。16歳で島原天草一揆の首領に推され、原城で90日間籠城(ろうじょう)の末、敗死。
幕府軍に抗戦し、島原の原城に籠城90日にして敗死。 
◆天草四郎 あまくさ-しろう
?−1638 江戸時代前期,島原の乱の首領。
小西行長の臣益田甚兵衛好次の子という。
天草甚兵衛の子。寛永14年圧政とキリシタンの弾圧に対して島原と天草に一揆(いっき)がおこると,小西行長の遺臣らにおされ大将となる。島原半島の原城に籠城(ろうじょう),幕府軍の板倉重昌を敗死させたが,15年2月28日落城,16歳で討ちとられたという。姓は益田。名は時貞。洗礼名はジェロニモ。
 
◆天草四郎
あまくさしろう
(1623/1624―1638)
島原・天草一揆(いっき)で一揆側の首領とされた少年。父の姓から益田(ますだ)四郎、居住地にちなんで江辺(えべ)四郎、大矢野(おおやの)四郎、一揆の首領としては天草四郎太夫時貞(ときさだ)、天の四郎秀綱、洗礼名はジェロニモといわれるが、経歴を含めて正確なことはほとんど不明である。父益田甚兵衛好次(ますだじんべえよしつぐ)は、天草大矢野の産で、領主小西行長(ゆきなが)に仕えたが、関ヶ原の戦いで改易されたので宇土(うと)郡江辺村で帰農した牢人(ろうにん)。四郎は、姉が大矢野村の庄屋(しょうや)の弟に嫁いでいる事実と、江辺生まれの四郎が9歳で手習いを始め、以後学問のために長崎にもときどき赴いた、という一揆勃発(ぼっぱつ)後江辺で捕らえられた母親などの申立てからすれば、かなり恵まれた境遇のなかで、当時の農村少年としては抜群の教養を身につけていたと思われる。
 寛永(かんえい)(1624〜1644)中期の島原・天草地方は、重税と相次ぐ凶作のため飢餓的状態にあったが、年貢減免などの世俗的要求でも、かつてキリシタン勢力の一大中心地であったため、ことさら信仰による抵抗として、弾圧とさらなる収奪が正当化されたところに「苛政(かせい)」の特質があった。一揆を指導した庄屋層や牢人たちは、広範な農民を生死を顧みぬ一揆に組織し、結束を維持する手段として15、16歳の四郎を天より下った救世主に仕立て、さまざまな奇跡を演出した。四郎の名は一揆勃発の時点から中心人物として領主側に把握されているが、実際に軍事上の指揮をしたとは考えにくい。彼の原(はら)城入城は1637年(寛永14)12月3日といわれるが、翌1638年2月27、28日の総攻撃で全員虐殺されるまでの約4か月、四郎を中心に籠城(ろうじょう)した2万人を上回る老幼男女は、10余万の幕府諸大名軍を相手に、いわゆる四郎の旗にみられる信仰による結束を崩さなかった。首領としての非凡な資質は否定できないであろう。多くの首のなかから熊本藩士陣野佐衛門がとった首が四郎のものとされ、長崎に送られて晒(さら)された。[中村 質]
『岡田章雄著『天草時貞』(1960・吉川弘文館)』
 
◆天草四郎の言及
【島原の乱】より
江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。

【益田時貞】より
江戸初期,島原の乱の首領とされる少年。居住地から江辺四郎,大矢野四郎,一揆の首領として天草四郎太夫時貞,天の四郎秀綱などと呼ばれ,洗礼名はジェロニモといわれるが,正確な素性はほとんど不明である。父益田甚兵衛はかつて小西行長に仕えた帰農武士といわれ,捕らわれた母親の陳述では,時貞は9歳で手習いを始め,学問のために長崎へも行ったという。
 
◆益田四郎時貞
ますだしろうときさだ
[生]元和7(1621).肥後
[没]寛永15(1638).2.28. 長崎
江戸時代前期,島原の乱の指導者。天草四郎とも呼ばれる。父は益田甚兵衛好次で,小西行長の家臣。主家の滅亡後,肥後宇土郡に住み,のち天草の大矢野郷で農耕に従事したといわれ,幼少の頃肥後熊本の細川忠利の家中須佐美 (すさみ) 半之丞の小姓をつとめたこともあるという。その後学問をするため長崎へ行き,ここでキリシタン信仰に入って洗礼を受けたと考えられる。洗礼名ジェロニモ。寛永 14 (1637) 年 11月島原の乱の首領に推され,有馬氏の故城である原城に籠城したが,同 15年2月討死,長崎で梟首された。
 
◆奴隷(どれい) - ウィキペディア
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjWsfjD7L3YAhUJxrwKHTVND6MQFggnMAA&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%25B4%25E9%259A%25B7&usg=AOvVaw2gQAj3MtH_tHn0qWj89hR9
人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。
1948年に国連で採択された世界人権宣言では、次のような宣言がある。
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。(第4条)

概説
あらゆる地域・時代の文献から、広範にその存在が確認され、その様態もさまざまである[2]。定義は古代から議論の対象となっており、アリストテレスは「生命ある道具」と擁護し、ソフィストの奴隷制批判に反論した。マルクス主義においてはスターリンの定義が最もよく知られている。しかし福本勝清によれば多くの奴隷制は生産と必ずしも結びついていないか、生産様式や生産関係を規定づけるほど主要なものではなく、本質的には「自己の勢力を増やす手段であった」とする。パターソンによれば「生まれながらに疎外され、全体として名誉を喪失し…永続的かつ暴力的に支配される(人間の)こと」。
人種差別、性差別、幼児売買などは奴隷に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷#日本
日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7#日本
一説には、すでに縄文時代に存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。

 
◆日本娘を売り渡したキリシタン大名
http://sound.jp/sodaigomi/dorei/amakusa/amakusa.htm
島原の乱(天草の乱:1637−38年)の首謀者と目された少年。しかし、その「素顔」を晒すことはついになかったとも云われる。
したがって、長崎に送られて晒されたという彼の「首」も、果たして「天草四郎」本人であったかどうか・・・謎に満ちた少年である。

彼は、時に、益田時貞/江辺四郎/大矢野四郎/天草四郎太夫時貞/天の四郎秀綱などの名で呼ばれ、
また洗礼名はジェロニモであったとも伝えられている。
恐らく、こうした複数の名前から、「天草四郎」という少年について、人々は憶測的なイメージしか持っていなかったのではないかと推測されて来る。
とりわけ、注意すべきは、「時貞」と「秀綱」の違いだろうか。
これは、二人の異なった人物ではないのだろうか?/いったい「天草四郎」とは、どちらのことを指していたのだろう?・・・
あるいは、ジェロニモという洗礼名を持つ少年は、さらに第三の少年だったかも知れない。

「天草四郎」が、一人であったにせよ、複数の少年たちの面影であったにせよ、それはそれでかまわないと思う。
天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。

天草 四郎(あまくさ しろう、元和7年(1621年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、
江戸時代初期の吉利支丹、農民反乱である島原の乱の指導者とされている人物。
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ/苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞)。
洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。
一般に天草四郎時貞という名で知られる。
本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。
通姓の「天草」は戦国時代天草の有力豪族だった天草氏からと言われている。
 
キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却

さて これが本題です。

 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、
中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の
大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、
一般の日本人より高い倫理性を持っていたようなイメージを持っているが、
日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
倫理観というのは時代とともに変遷する。
 
◆日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html
前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

◆鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか〜
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-category-1.html
何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。
 
◆乱取り(日本の戦国時代の奴隷狩り)は「白人による人種差別」なのか?〜豊臣秀吉は同胞愛あふれる愛国者か?
http://nationoflequio.hatenablog.com/entry/2015/08/22/132854
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昨今のNHK大河ドラマでは、主人公の戦国武将が愛や平和を訴えたりする。
「なんで、戦国武将が平和主義者なんだ? まるで21世紀の人間じゃないか。当時の人間がそんな考え方はしないだろう!」という苦情がおこる。

戦前の日本が朝鮮半島を植民地にしたことや、帝国陸海軍が朝鮮人慰安婦を利用したことを、戦後になって日本の左派や韓国人が批判する。
「当時は、国家が植民地を獲得することも、売春も、普通に認められていた。そういう時代だったのだ。今の倫理で過去を裁くのはおかしい!」という反論がおこる。

私も基本的に賛成である。

だから、こういうのも、なんだかなあ(笑)、である。
戦国時代の日本と、明治以降の近代日本を、ゴッチャにしてないか?

この人、政治学者なんでしょ? 
そこらへんを厳密にしないと社会科学じゃないよね?
・・・あ、他の発言を読んで、納得。
「そういう」タイプの政治学者か(笑)。

日本人奴隷の存在に激怒した愛国者・豊臣秀吉
 それは、豊臣秀吉が、日本における奴隷制の強烈な反対論者だったという事実だ。
 奴隷制というのは、日本の内部の話ではない。戦国時代、多くの大名たちが欧米人との間で奴隷貿易を行っていた。これも教科書に記載されていない重要な事実だ。
 多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。


 
◆奴隷貿易をしていたユダヤ人
ヨーロッパ人に隠れてユダヤ人が
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68402119.html
  奴隷制は昔から何処にでもあった。古代バビロニアとかエジプト、アッシリア、ギリシア、ローマを調べれば、奴隷を使っていない方が珍しい。日本人は太平洋を隔てたアメリカの黒人奴隷ばかりに目を向けるが、すぐ隣の朝鮮や支那を見ようとしない。李氏朝鮮では奴卑など至る所にいたし、支那では皇帝が支配する人間すべてが奴隷だった。天子を補佐する「宰相」とは、もともと料理を作る罪人という意味で、皇帝の召使い程度。さらに酷いのが「民」という言葉。「針で目を潰された奴隷」という意味で、盲(めくら)になった無知蒙昧の小人(しょうじん)に相応しい漢字である。法律で「奴隷制」をつくらずとも、支那の民衆は端っから搾取の対象である。支那皇帝にとり、天然奴隷は野生動物と同じで、使い捨ての家畜で殺そうが食べようが、ご主人様の勝手。漢籍を学んできたはずの日本人は、これを子供に伝えないなんて、論語読みの論語知らずと一緒である。西歐の奴隷制ばかりに注目する日本人は、学校教育における情報操作に気づいていないのだ。アメリカの黒人奴隷に詳しくても、ロシアの農奴をコロっと忘れている日本人が如何に多いか。奴隷と平民の区別が曖昧なアジアの方をもっと勉強すべきである。(ロシアはスラブ系だけど、モンゴル系アジア人と考えた方が理解しやすい。)

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