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2017年04月10日12:20

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和算(わさん) 2

和算の性格

積分を多く用いて円理の問題を巧みに解いた一方、微分の概念は和算ではあまりはっきりと立ち現れてこない。これは、和算が「関数」および「グラフ」の概念を欠いていたことが一つの理由であろう。ただ、代数方程式の重解の考察にからんで多項式の微分が関孝和以来扱われている。しかし、関による定義は、f(x+e)をeについて整理したときの一次の項で、接線との関係は全く念頭にない。建部賢弘はこれを多項式関数の極値問題に応用している。彼は、数値的に微小な差分をとった時の主要項と、関の定義による導多項式が一致していることには気がついていたようである。また、久留島義太は極値問題を級数展開の視点で考察し、微分法の一歩手前まで来ている。同じ脈絡で、和田寧はフェルマーの方法、すなわち (f(x + e/2) - f(x - e/2))/e を計算し、e = 0 とする方法を発表している。

微分が発達しなかった為、和算では微積分の基本定理がなかった。したがって、微分の逆で積分を計算することも、部分積分を利用することもできなかった。複雑な関数の積分は、冪級数展開と級数の和の公式を巧みに用いた。

和算の中心的な手法は数値計算的な代数であって、特に関孝和や建部の頃は、図形の問題はピタゴラスの定理など、簡単な関係を用いて代数の問題に直して処理していた。算額に見られるような、互いに接する円や楕円の関係を求める問題は、松永良弼の頃から盛んになる。次の世代の安島直円は、三斜三円術(マルファッティの定理)などを発見し、これらの問題の系統的な解法の発展に寄与した。幕末には法導寺善が反転で円を直線に写して簡略化する手法を導入した。近年、和算で発見された幾何の美しい定理は(趣味的な観点からではあるが)注目を浴び、日本国外にも広く紹介されている。ただし、問題の処理にあたって代数計算や数値計算に頼る傾向が最後まで残った。作図問題などはあまり扱われず、公理的な幾何学などは全く受け入れられなかった(後述の、『幾何原本』に関する記述も参照)。幕末、海軍伝習所で教えた外国人教官の追憶によると、日本人は代数の理解は早かったが、幾何は中々進まなかったという。

和算には文化的相違より、西洋数学からみると変わった概念も多くあった。たとえば関孝和は実数解のない方程式を解くのに、西洋の虚数の概念の導入とは別に、問題の係数を置き換えて解の得ることのできる範囲(極数という)を調べる「適尽法」という方法をとった(これは後、方程式解の極大極小の理論へと発展する)。幕末の長谷川寛は極形術や変形術という新たな幾何の理論を発明した。極形術は、扱いづらい数や図形を扱いやすいもの(極形という。たとえば長方形やひし形なら正方形に、三角形なら正三角形や二等辺直角三角形に、大きさが等しくないものは等しいものに、など)に置き換えて、問題を解きやすくするという術であり、変形術は図形の形を引き伸ばしたり回したりすることで形を変えて問題を解きやすくする術であった。これらは和算の新たな境地を見出した。しかし、その後、明治に入って和算が衰退したことによりこれらの研究があまり進まず、どの問題で適用できどのような方法をとれば正しい解が得られるのかなどといったことが明らかにならず、その理論性が固まり得ないまま、これらの術は滅びてしまった。

西洋における数学とて古代から現代のようなスタイルであったわけではないとはいえ、『ユークリッド原論』が基本書と認識される程度には、数百年前から「定義」「公理」「定理」「証明」といった概念によって数学が行われてきたわけであるが、それに対し、日本にも江戸時代には原論の徐光啓の訳による『幾何原本』が伝わっていた(一時は禁書だったが、それも享保年間に学術書として解除)にもかかわらず、その内容の意義が全くわからなかったと言われており、文化的相違というよりも、実際のところ数学とは全く異なる知の体系であったと言え、後の明治において全く別のものとして(西洋の)数学に置き換わってしまったのは当然の結果と言える。

和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされ続けてきた(実際にどの程度秘密が守られたかは不明)。しかし、関流算術を学んだ久留米藩主・有馬頼徸は1769年(明和6年)に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。また、幕末の長谷川寛監修、千葉胤秀編の『算法新書』(1830年(天保元年))では、初歩から最先端の結果までを丁寧に解説した。

日本で数学の専門家を輩出し得た社会的背景としては、貨幣経済の興隆の他、国絵図作成、新田開発などのための測量に対する需要があると推測される。また、暦学にも高度な数学が必要であった。関孝和は仕えていた甲斐国甲府藩における国絵図(甲斐国絵図)の作成に参加し、(実現はしなかったものの)改暦の準備のために授時暦の研究をしている。特に後者は、関孝和の数学研究の重要な動機である、との説もある。
算木とそろばん
算木を用いた数の表記

和算で用いられる道具として算木とそろばんが挙げられる。いずれも『算法統宗』に使用法が紹介されている。また、『塵劫記』にはそろばんの使用法が絵入りで丁寧に解説されている。

そろばんは会計等広く用いられたのに対し、算木は専ら和算家によって、天元術(中国の代数方程式の理論)などの計算に用いられた。籌算(算木計算)では算盤(さんばん)と呼ばれる盤と数を表す算木を用いる。算盤では碁盤状に升目が敷かれた布や板であり、横の目が一、十、百、千、万といった桁数を表し、縦の目は商(答え)、実(定数項)、法 (x)、廉 (x2)、隅 (x3)、三乗 (x4)…と代数方程式の解および各係数を表し(ただし流派によっては廉以下を初廉(x2)、次廉(x3)、三廉(x4)…とし、隅を最大の次数とする)、各升目に置かれた算木を並べ替えることで代数方程式を解いていく。

この算木による計算によれば、理論上は一元方程式なら何次でも解けるものであるが、場所をとったり、計算途中に算木を一本でも崩したらすべて台無しになる、次数が大きくなるほど計算が煩雑になるなどして、扱いづらさがあった。 よって、中・後期ごろには、算木の運用の煩わしさを嫌って、方程式をも算木ではなくそろばんで計算しようとする研究が盛んになった。著しいものは川井久徳の著書『開式新法』がある。彼は、従来それぞれ独立していた各次数の方程式のそろばん解法(いわゆる解の公式)の一括を試みて、何次の一元方程式でもことごとく、そろばんによって速やかに解く一貫の方法を編み出した。

古くは加減乗除のような算数も算木・算盤によって行われていたが、そろばんが現れてからは、算木・算盤は数学で方程式の解を求めることのみに扱われるようになった。
算額
奈良市円満寺に残る算額
詳細は「算額」を参照

算額(さんがく)とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。平面図形に関する問題の算額が多い。数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

算額は数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと言われる。やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や問題だけを書いて解答を付けずに奉納する者も現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことも行われた。算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。

1997年(平成9年)に行われた調査結果によると、日本全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版)。これら現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市にある星宮神社にあり、1657年(明暦3年)に掲げられたとされる。新しいものでは、昭和年づけのものが幾つか現存している。明治以降、洋算化の進む中で和算をたしなみ続けた人々がいたが、この風習はそういった和算家により昭和初期まで続けられた。

算額を扱った小説として遠藤寛子『算法少女』がある。

近年、算額の価値を見直す動きが各地で見られ、一部では算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。これは直接和算の伝統を受け継いだものではないことが多いが、いずれにしても日本人の数学好きをあらわす文化事象として興味深い。


算道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E9%81%93
算道(さんどう)とは、日本律令制の大学寮において、算術を研究する学科。


概要
成立期

大宝律令による大学寮設立時から存在した学科である。当初は明確な学科の種別はなかった[1]が、一般の官人を育成するために設けられた本科に相当する儒教の講義(後の明経道にあたる)以外には、儒教経典の原典をそのまま筆記するための書道とそのまま発音するための音道は本科の補完するためのものであった。それに対して算道の扱う分野は儒教とは直接的な関連性はなく、計算や測量などの技術系官人の育成を行うことを目的としていたことから、唯一本科から独立した存在であったのが算道であった(ただし、後述のようにこうした通説に対する批判もある)。

大学寮には算道を教授する算博士(さんはかせ、従七位上相当・2名)と学生である算生(さんしょう、30名)で構成されていた。これは唐の国子監に置かれた算学と同数であり、教授として博士1名以外に助教2名及び複数名の直講が置かれて、学生も400名もいた本科と比べると小さいものの、唐の国子監の規模は日本の大学寮と比べて大きいこと、唐の算学博士は従九品下と低い地位に置かれたことを考えれば、設置当初の地位は一概に低いとは言えなかったとされている。その後、天平2年(730年)からは算博士候補者となる特別給費生として算得業生2名が算生の中から選抜された。また、天平宝字元年(757年)からは陰陽寮で暦道を学ぶ暦生の中から暦学に必要な数学を学ぶために算道を兼修する暦算生が別枠として設置された。ただし、近年においてこうした理解に対して批判もある。すなわち、実際に算博士の活動を示す記録が奈良時代において活動することが出来ず、算術関係の記録に登場するのは暦道出身者であることが指摘されている[2]。更に天平宝字元年の暦算生の設置は藤原仲麻呂政権による算科の陰陽寮(太史局)暦科への統合であったとする説[3]もあり、奈良時代段階では実際には暦博士が算道を教授していたとする見方もある[4]。

大学寮の中には算道の講義と算生の寄宿のための施設である算道院(さんどういん)が置かれていた。平安京遷都後は、大学寮敷地内の明経道の施設である明経道院の南、明法道の施設である明法道院の北にあったとされている。[5]なお、現存する算生に関する記録を見る限りでは、渡来人系の氏族に属する者が多かったとされている。
算道の内容

算道の教科書として律令法などで定められていたのは以下の9種である。

孫子算経…三国・両晋期に孫子を著者として仮託して書かれた古典的な数学書。唐の李淳風の注釈で有名。
五曹算経…北周の甄鸞の著。行政官に必要とされた基礎的な数学知識を「田・兵・集・倉・金」の5つの章立てで解説した書。
九章算術…現存する中国最古の数学書。九章から構成された体系的な書。魏の劉徽の注釈で著名。
海島算経…劉徽が著した測量計算に関する書。
六章…詳細は不明であるが、『九章算術』を応用発展させたと言われている。
綴術…祖沖之が著した高等数学の書で、円周率や球体積の計算方法が書かれていたとされているが、現存しない。
三開重差…級数展開などの高等数学に関する書。
周髀算経…天体暦算に関する書。紀元前2世紀に成立して暦学の基本書とされた。
九司…詳細は不明であるが、『五曹算経』と同様の行政官向けの数学書であったと言われている。

なお、当時の唐で採用されていた算経十書と呼ばれる教科書のうち、『張邱建算経』・『夏侯陽算経』・『五経算術』・『緝古算経』の4種が除かれて代わりに『六章』・『三開重差』・『九司』が採用されている。これは、内容の重複や日本への伝来事情などとの関係があると考えられているが、詳細な理由は不明である。

算生の官人登用試験である奉試については、学令で定められていたが、大宝律令と養老律令では微妙に規則が違っていた。大宝律令では『九章算術』・『六章』・『綴術』の基本の3書のうち1つから3問、それ以外の6書から各1問ずつの計9問を出題して6つ正解すれば及第としたが、3問出題される基本書からの出題を間違えた場合には他の8問が正解でも不合格とされた。養老律令では方法が2通りあり、前者は『九章算術』3問と『六章』・『綴術』以外の残り6書から各1問の計9問から出題されるもの、後者は『六章』3問と『綴術』6問の計9問から出題されるもので、前者は基礎算術、後者は高等数学の知識を試した。全問正解であれば甲第とされて大初位上に自動的に叙任され、『九章算術』あるいは『六章』の全問を含めた6-8問正解者は乙第とされて大初位下に叙任された。なお、天平3年(731年)以後は基本書(『九章算術』・『六章』・『綴術』)3問に加えて、『周髀算経』1問の計4問のうちから不正解を出すと及第は認められないこととなった。

算得業生成立後は、7年学習して奉試に及第すると合格者は算博士や主計寮・主税寮・大宰府・造宮省(後には修理職・木工寮)に設置されていた算師に任じられる他、地方の下級国司となって租税会計事務などを扱った。また、それ以外にも造寺司など一般の官司にて下級官人を務めながら、校班田や荘園図の作成などの際に臨時で「算師」として派遣された者の存在も確認できる[4]。

当時、算術が普及せずにその知識を有する者が少なかったために官位こそは低いものの、及第して官人となった算生の持つ数的処理能力に諸官司から期待されるところは大きかった。ただし、それは技能としての算術・数学であって、数学的思考や教養、感性が求められたものではなく、ましてや中国に見られたような高等数学が当時の日本社会で必要とされる場面は存在しなかったと考えられ、日本数学史が独自の進歩を見せるきっかけにはなりえなかったのである。
算道の衰退

大学寮が設置された当初、一般官人を育てる本科(明経道)と技術官人を育てる算道しか事実上存在していなかったが、神亀年間に律令を教える律学博士(後の明法博士)と歴史を教える文章博士が明経道から分離する形で成立し、やがて天平年間に独立した学科となり、後の明法道・紀伝道へと発展することとなる。

こうした中で算道の地位はそれまでと大きく変動することもなく、結果的に上昇傾向にあった明法道・紀伝道とは相対的に見て地位が低下することとなった。その発端は延暦21年(802年)に明法生を増やすために算生の定数を30から20に減少させたことである。続いて律令制の衰退に伴う地方政治の紊乱によって算道に対する需要が減少していくことになる。更に他の学科でも同様であったが、算博士の推薦を受けて成業(得業生及び奉試及第)の見込みのない者を無試験で地方国司や京官の下級役人に推挙する算道挙・算道年挙が行われるようになったり、一般の算生でも一定の条件を満たせば得業生に準じた奉試受験資格を得て試験を受けることが出来るようになった(准得業生試)。こうした状況下では、算道は実質上明経道に吸収された書道・音道に代わって成立した紀伝・明経・明法・算の4道の中で最下位に転落することとなった。

更に算博士も必ず主税寮か主計寮の頭か助を兼務して更に2名中1名は五位史[6]を兼ねることになった(『官職秘抄』)。これは、算博士の職掌が次第に算生の教育よりも中央の財務・経理官人としての職務に移りつつあったことの反映であった。貞観13年(871年)に算博士の官位相当が正七位下に引き上げられたのも、算道の衰退にも関わらず算博士の算道以外の職務が重視された結果であった。この頃になると、算博士の世襲化が進み算道によって奉試に合格するとともに、譜第の家系であることが算博士就任の要件とされるようになり、当初は家原氏・大蔵氏が平安時代前期には世襲化も兆候を見せるものの長続きせず、両氏の没落後は小槻氏[7]・三善氏[8]の両氏が世襲する[9]ようになり、自己の算道を家学・秘伝化し、また有能な門人を養子として家名を継承させることで他氏を排除するようになった[10](官司請負制)。

こうして、算道は世襲による閉鎖的な学術となって、日本数学史は停滞の時代を迎えた。『今昔物語集』巻24第22及び『宇治拾遺物語』185
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