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2018年03月31日09:19

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空と無自性

DICTATOR
曰く、空とは神秘体験の境地である曰く、
空とは関係性のことである曰く、
空とは無自性の力の結合である


<追記>
しかし内証すればするほどに、
「有と無とから離れる」捉え方であるとする解釈自体が、独断なる思い込みであればあるほど、
「物質的諸現象には実体がない」という見解自体も、「アートマンの存在の有無」や「神の存在の有無」などと同様に
形而上学的見解(ア・プリオリ)、即ち絶対存在の追求と認証、なのではないのか、と。

そして、「物質的諸現象には実体がない」ということは、誰が、どのようにして知ることができたのか、と。
それを説明すれば確かに、
この世でのすべての事象の有無そのものを突き詰めるような形而上学的(経験の領域を超え出るもの、ア・プリオリ)理解を
するのではなく、
諸行即ち因縁によって生じた一切の事物・事象という実体について、
縁起の法という真理すなわち、
互いに関わりあって生滅する「無自性」なる事象という<現象>はあっても、
絶対不変の自ら単独単体で存在するという意味での事象、
つまり「自性」なる単体それ自身の事象である<実体>そのものなどというものはない、
という推論であリ、定理?(論理的説明)であるが。もちろん証明する手立てなどはない。。


ともあれ、原初の釈迦の仏教に戻るとするなら、次のように言わなければならないと思う。
「自性の有」の見解と「自性の無」の見解を含めたすべての見解さえも、捨て去れ、と。

「想いからの解脱において解脱する」ということは、捨て去られるべき見解には例外はないのである。
(最終的には、自分の見解さえも捨て去った境地が、ブッタの境地なのだろ。)
更に言えば、その捨て去れという概念や意志すら、捨て去れ、つまり何も考えるな・無私、無心たれと・・・。
座禅や瞑想はそのための修練の方法である。

確かに、捨て去られるべき見解そのものに、数多くの例外を作り出していったのが、まさに、仏教の歴史であり、
その微妙な相違によって、いくつもの宗派に分かれていったのかもしれない。
しかし、すべては、その人の感じる思いや、自己解釈に過ぎないのだから・・・。
自分の自己認識自体を越えられるとするなら、それはどこからくる認識であろうか・・・
その限界を超えるものがあるとするなら、やはり真理を求めること自体を言葉で模索しても決して
答えを得ることなどはできない、即ちブッダの云う、智慧とは言葉を越えて理解出来るもの、
即ち覚り、悟るということ、真如であろう。

或いは宇宙のダークマターのような存在を感じ取れるようになることという、
口では、言葉では語りつくせぬ、
いわゆる一般的良識や知性を超えたブラックさ、一種超感性或いは第六感か七感の智慧の取得かもしれない。

常に「苦」からの脱却つまり、心の安寧、静寂、和平、即ち「涅槃」でいられるようになるために・・・。

とはいえ未だ日々生きていくのが、己の無智・無明さにだけいつも気づかされるばかりの、目覚め、悟り、位がせいぜいなのだが。。。
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