一切の非有非無の中道を説いたのが、初期仏教であり、初期大乗。
存在としての非有非無、はたらきとしての不生不死、無相・無作・無量・無辺・無自性・無差別というのは「空」についての別名。
最も根本にあるのが、非有非無だが、「万物に仏性が宿る」という表現をすると、
万物の存在肯定をするだけでなく、もっともやっかいな自分の実体を肯定することになる。
仏教をはじめたばかりの人が「自分には仏性が有る」と観たら、
自分の妄想に依る「仏性」をつくり、それに執着する方向へ行きかねない。
仏性の有無は、最終段階で分かることで、
つまり、仏陀=真理ダンマを悟りし人となった時に覚醒する、
又は諸法・諸行は「縁起」「空性」「空」であると無明・無自覚状態から解脱出来るのでしょう。
日本では本覚思想(如来蔵→仏性 →本覚思想)=>
一切衆生悉有仏性(衆生或いは万物には誰もが仏になれるということ、
あるいは元から具わっている・悟っている)が中心になっているようだが、
この思想は初心者向きではない、ということらしい。
仏教の大前提は、仏も菩薩も諸法世界すべてが「空なるもの」であり「縁起せるもの」であるから、
仏陀の縁起の思想には、世界(五蘊)の成立の原因をブラフマンの様な絶対実在的根本原理に求めず、世界内の因果関係に求めたのである。
したがって仏教では、「梵我一如」はなく、空性や空なる関係から「自他一如」となる。
縁起の思想と、仏性はもともと別のもので、 仏性というような、何か実体的なものは、釈迦は説いていない。 大乗仏教独特の教理でその一部の経典で表記。主に『涅槃経』で説かれ「 覚性 」ともいう。『法華経』では、 仏種 ( ぶっしゅ ) 「仏に成る種」、『勝鬘経』では、 如来蔵 ( にょらいぞう ) など。
「仏になる可能性」というのが、仏性の最大公約数的な回答だが、「仏」って、何? という疑問が出てくる。
元々は「仏陀」の略称であり「目覚めた人(悟りを開いた人)」という意味だが、大乗仏教ではまた違う、「人(=ホモ・サピエンス)」ではない解釈があったりする。
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