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2017年03月12日14:15

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阿弥陀如来や釈迦如来と大日如来(或いは毘盧遮那如来)との違いは?

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阿弥陀如来や釈迦如来と大日如来(或いは毘盧遮那如来)との違いは?
阿弥陀如来は、本来、アミターバ<無限の光>或いはアミターユス<無限の寿命>といい、無量光仏又は無量寿仏、即ち「計り知れない無限大な光や命のホトケ」と称し、
毘盧遮那如来も、ヴァイローチャナ<太陽>、即ち「世界ー広大無辺の宇宙ーの中心として無限大に照らし続けるホトケ」、或いは大日如来は、マハー・ヴァイローチャナ「偉大なる毘廬舎那(びるしゃな)」で尊称として「偉大な」「マハー」という字がついているかどうかの違いで同じようなものでしょう。
いずれもすべて、光つながりということで似ており、いわゆる仏身論で違いを以下のように説明しているらしい。
仏様の身体には、三つあるといわれており、
究極の仏身と呼ばれる《法身(ほっしん)》、願行の報いとして仏となり得られる身体《報身(ほうじん)》、お釈迦様のような物質的な肉体を持った《応身(おうじん)》ですね。《応身》は《色身(しきしん)》ともいわれる。
大日如来或いは毘廬舎那如来は、究極の仏の身体(?)いわゆるブッダの教えそのもの(法)という仏格である《法身》の仏さまとなる。
対して、阿弥陀さんは仏となる前、法蔵菩薩で、弥陀の四十八願を立て、修行をした《報い》として仏さんになったわけなので、《報身》となるようだ。
釈迦如来(或いは釈迦大仏、釈迦大如来)は、当然《応身、又は色身》のホトケさまだ。
また巷でいう、阿弥陀仏が釈迦仏の先輩とか先生とかいう通説など気にしない方が良い。
いずれにせよ、
これだと、<法身仏>大日如来或いは毘廬舎那如来の方が、
<報身仏>阿弥陀仏や<応身仏>釈迦如来よりも、
仏さまの位、尊格が上というような感じだが、そういうものではなくて、
よく聞く例えだと、
大日如来又は毘廬舎那如来は《りんご》で抽象、
阿弥陀如来や釈迦如来はりんごの一つの種類である《ふじ》で具象。
りんごの《ふじ》も《りんご》のようなもの。
また、抽象は具象を離れて存在せず、
阿弥陀仏さんや釈迦仏と、大日或いは毘盧遮那仏さんは、全く同じではないけれど、
違うものでもない。ややそこが曖昧でもあるが・・・。
大日如来或いは毘盧遮那如来と阿弥陀如来や釈迦如来との関係は、こんな感じ、らしい。
なお、日本仏教での各宗名・宗派における本尊だが、釈迦如来だと、法相宗・天台宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗や黄檗宗で、法華経が主流の経典のようで、毘盧遮那如来では華厳宗•律宗で華厳経や律論が主な経典、そして阿弥陀如来だと、浄土宗・浄土真宗や時宗で、浄土三部経(阿弥陀経や無量寿経など)が主要経典であり、また大日如来だと真言宗で、いわゆる密教の大日経・金剛頂経・理趣経などが根本経典。
各々の経典に登場する主たる如来を本尊とする。
法華経や華厳経、阿弥陀三部経は大乗仏教初期に作られ、大日経・金剛頂経・理趣経は後期の7世紀頃に成立している。このほか、初期の初めに般若経や維摩経が成立し、中期の3〜4世紀に勝鬘経や涅槃経が成立していて、各宗派でも一部引用
・重宝している。

<追記> Amazon ベスト500レビュアー より
南無阿弥陀仏の名号の真の尊さは、それは結局は「華厳的」なものであり、
「随順世間之徳」ゆえにありとあらゆる世界にあらゆる無学なるも素朴な信仰の持ち主人々に寄り添う大慈悲である。
阿弥陀仏が法蔵菩薩だった修行期において、
国王の身分を一蹴りにしてでも、すべての衆生を救わんとした「菩提心」である。
このような菩提心を根底に据えてかからないと、
南無阿弥陀仏の名号の有り難さも、なかなか感じ取れるものではない・・・のだとか。。

インド本来の浄土思想のあらまし:
 ●1)前世のおこない(身口意の三業)のはたらき(業・カルマの力)に因って、他ならぬこの世に何度でも生まれ変わっては(再生)、その一生を終える(再死)、という輪廻転生(りんね・てんしょう)の生存を、インド人の多くは、いまでも信じています。
 その苦しい繰り返しを終わらせるためには、修行して覚り(さとり)を開くのがいちばんですが、大多数の凡人は、ガンジス河のような大河のほとりで沐浴斎戒し、死後は、火葬した遺骸の灰を流してもらうことで、輪廻の運命を逃れようとします。たとえ逃れられないとしても、せめて次の生涯では、いまよりは、恵まれた生まれ方ができるようにと、熱心に祈願します。

 ●2)インド宗教のなかでも仏教では、この信仰に、「自利」(自己の生存にとっての利益)だけではなく、「利他」(自己以外の一切に功徳を廻らせること=衆生済度)の要素を、積極的に加味するようになりました。そのいきさつは、以下のとおり:

 ●3)まず、法蔵菩薩という修行者が覚り(さとり)を開き、「阿弥陀仏」(Amitabha Buddha「無量の寿命・光明を持つ仏陀」という意味)と成ります。その際、「南無阿弥陀仏と唱えた者が、かならず、わが仏国土(西方の阿弥陀浄土)に生まれ変わる(浄土往生する)ことができますように!」という誓願(全部で四十八の誓願)を成就した、と浄土経典(『大無量寿経』)は説きます。

 ●4)本来なら、どんな境遇で転生するのかはわからず、再び人間に生まれ変わりたいと願っても、望みどおりにはならない、苛酷な輪廻の世界なのに、この「阿弥陀仏」の力が、念仏者をストレートに浄土往生させる、というのですから、なんとも有り難いことなのです。

 ●5)では、浄土に生まれるのは、何のためなのでしょうか。美しい音楽を聴いて、天女の舞を見ながら、永遠に楽しく暮らすためなのでしょうか。そんなことならば、この世でも、似たような体験ができることでしょうし、欲のおもむくままにしている限りは、苦しみや悲しみもつきまとうでしょう。

 阿弥陀仏の浄土は、そこに生まれた者たちを修行させて、覚りをひらかせる(仏陀に成るように導く)ためにあります。
 どんな悪人でも、かならずや、立派な心がけになれる、霊妙不可思議な道場(何の障害もなく、修行できる環境)が、浄土なのです。

 【※ 人は、浄土に咲く蓮の花のなかに包まれて生まれてくる、ともいわれています。その花が開いて、修行ができるようになるまでの時間がいちばん早いのが、生前、善い行ないをきわめた「上品上生」(じょうぼん・じょうしょう)の人で、いちばん花のなかに閉じ込められる期間が長いのは、悪い事ばかり行なってきた「下品下生」(げぼん・げしょう)の人。この、行ないを規準としたランクづけには九段階ある、と説かれています。
 あるいは、浄土では、すでにこの世を去った、親しい人々と再会できる、という信仰もあります。とはいえ、キリスト教の「天国」のように、永遠に神を讃美する世界ではないので、いつまでも、再会を喜んでいられるわけではないようです。・・・実際に行ってみないと、わかりませんけどね(笑)】

 仏陀に成って、衆生済度(この世の生きとし生けるものを救済すること)できる力を得た者たちは、早速、この世に還って、行動を開始します。
 浄土往生する者の状態を「往相」(おうそう)、浄土からこの世(穢土、娑婆世界)へ還る者の状態を「還相」(げんそう)と呼びます。この二つは、両方そろって一つであり、離れてあるのではありません。

 上記の●2)で述べた「自利」と「利他」が一体化して、円満な姿となり、自らの願いどおりに「転生」する(「願生:がんしょう」する)、新しい輪廻観が誕生した点に、「浄土仏教」(浄土教)の独創性がある、といえるでしょう。
 「浄土」への転生者は、自利利他円満行(じり・りた・えんまんぎょう)を完成させる「大乗菩薩」(だいじょう・ぼさつ)として、活躍します。

 ●6)大乗仏教(「Maha-yana: 大きな乗り物」でより多くの衆生を救済する仏教)を標榜したインド人は、以上のような、時間的にも、空間的にも、大変、スケールの大きい世界観のなかで、浄土思想を説きました。

 この思想が、抽象思考よりは、実質的、実利的な成果を求める中国人や、その文化的影響を受けてきた日本人のあいだにもたらされると、「浄土」は他ならぬ「この世」に生きる己れの心(「唯心の浄土:ゆいしん・の・じょうど」)、「阿弥陀仏」は「この世」に「浄土」を観る己れ自身(「己身の弥陀:こしん・の・みだ」)、といった解釈が支持されるようになり、浄土思想の新境地が築かれてゆきます。永い時間をかけて修行するよりも、この世で生きているあいだに「さとり」を開きたい、という願望が勝ったのでした。・・・気が短いともいえますが、「ほんとうに、そうだよね!」と共感できるのも確かです・・・・ ということらしい。。。 以上、追記。
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