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2016年09月25日10:13

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生存欲・存在感

なぜ念仏一つにこだわるのか【瓜生崇】 | リレーコラム|浄土真宗の法話案内 http://shinshuhouwa.info/column/archives/1115
こだわりとは、敢えて意識して当該のものを選択すること、即ちこれも、囚われ、執着?? 仏の教え通りの瞑想修行三昧による自己完結の悟りが例え禅修行とかであっても、凡夫、衆生には困難だから、阿弥陀仏におすがりする信仰の言動としての,「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という浄土真宗の教えに基づいてやっていられる宗派の方々の南無阿弥陀仏の念仏を、なぜこの一つにこだわるがそれだけでいいのかと問い迫って、それでは元々の瞑想や座禅などの行と修行三昧でこそ救われると言い切ってしまうのであれば、結局繰り返しの本質はただ瞑想修行に戻れといってるのと大して変わらず、それで新たにファッショナブルに仏教愛好家でも呼び込もうとするだけの表面の格好だけのようで、やや慢心で傲慢なようにも見える。もちろん、その修行三昧のあり方を自分なりに追求していくこと自体は躍動的で前進的で素晴らしいと思う。 一般的に、救いを求めるというのが,どの宗教も信仰の基本ではあろうが、本来ブッダが出家した動機は、人生の生老病死の無常故に無明なる我執にとらわれて思う通りにならない苦しみ(一切皆苦)から抜け出るため(無我の境地を得て、あらゆるとらわれから離れた涅槃の悟りと智慧で、一切の苦から解放され,自他一如の慈悲心も持つ)であったのであり、無我・空性である以上、誰かに「固有不変なる自己(本来誤認した自己認識なのだが)」を癒してもらおう、人生の幸せの功徳を与えてもらおう、そして死後も救ってもらおう、などということ自体が,本当は、錯覚,妄想なのではとも思う・・・日々是好日也。 しかし、とはいえ、自己の煩悩や悪しき言動を日々、念仏をとなえ、日常の人生を善き行いに励んでおられるのであれば、南無阿弥陀仏の念仏にこだわる浄土真宗はそれで、素晴らしい仏教宗派であると思うのだが。。。
欲や希望や喜びなど意図するしないなどと関係なく、生体だから存続の生存欲があり、持病の病気は苦しみだから、あれこれと辛すぎて原因や理由を虚しく妄想しては絶望し、痛みが和らぐ瞬間はしばらく、生き抜く疲れとめまいにむしろ寛ぎながら、また痛みの再来で辛く苦しみ、その繰り返しの日々。存在欲以前として、生体物理本能的生存欲も切れない状況で、今更,敢えて存在欲などどうこうするしないなどの気力も悟り欲などもない。ただ老病死は「苦」であり、その受け止め方で、「無明」から完全に離れ、もろもろの煩悩や執着から離れることが出来て、常に「無我」や「空」の境地にでも入れれば、生存欲も、そして当然に存在欲も越えられるのかもしれないが・・・。「生存はすでに尽きた。清らかな行いは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない。,と確かに知るのである。(サンユッタ・ニカーヤ)」、となりたいものだが。。。
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