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2020年05月29日23:08

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宝林寺裏山に仕掛けられた罠、苔生した石仏と近藤家墓所

5/4(月)に遡るが、都田川の北側にある名刹 初山宝林寺の裏山を歩いてみた時の事だ。

宝林寺については、これ迄幾度も書いてきた。

1)秋の特別展/2007年11月/同寺
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=614378580&owner_id=3341406

2)浜松にもたらされた黄檗文化展/2014年11月/浜松市博物館
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934930630&owner_id=3341406

3)30年振りに一新したこけら葺き屋根/2020年1月/同寺
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974199924&owner_id=3341406

4)宝林寺を開創した近藤家について/2020年2月/実相寺
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974673205&owner_id=3341406

4)をお読み頂くと分かるが、NHKの大河ドラマ『女城主 直虎』で広く知られる事になった「井伊谷三人衆」の1人近藤康用(やすもち)と、実相寺を起こした近藤貞用(さだもち)とは曾祖父と曾孫の関係だった。

◇康用(1517-88)〜秀用(1547-1631)〜季用(1573-1612)〜貞用(1606-96)

その貞用が同じ北区細江町の宝林寺も建立したのである。
貞用は、宝林寺のために5万坪もの敷地を寄進したと伝えられる。

近藤貞用夫妻の頂相(肖像画)の写真は1)で紹介している。
この絵は喜多元軌が描き、宝林寺を開創した独湛(どくたん)禅師が賛を入れた。

黄檗宗を日本にもたらした明の僧 隠元の弟子の1人であった独湛の頂相は、2)の日記で見る事ができる。
これも喜多元規が描いたもので、リアルな筆致が大変面白い。

私が最近手に入れた歴史散策の冊子に挟まれたマップを見ると、宝林寺の裏の方に「近藤家墓所」と「五如来」と小さく書いてある。
5/4に宝林寺の裏山を歩いたのは、それを見つけたからである。

宝林寺の一般墓地は、山門前の長い階段を上がって、正面仏殿の左側の山の斜面にある。
車で来た場合は、境内の右手にある駐車場から案内所の方へ上がり、仏殿の前を通って向う側へ行くと、永代供養の石仏が見え、その足許から墓が並んでいる。

近藤家墓所はその一般墓地とは全く違う所にある。
駐車場の奥から右、つまり境内とは反対の方向に歩いていく。
したがって、普通、お参りする人達はこちらへは来ない。

矢印に従って歩いていくと、次第に木々が鬱蒼としてくる。
途中で道が分かれ、左「阿弥陀仏」、右「近藤家墓所」という小さな立て札がある。
根拠はないけれども、この「阿弥陀仏」が「五如来」と関係があるのではないかという気がして、まず左の山道を進んだ。

陽は木々に遮られて届かず、地面は湿っている。
道の脇には山から染み出た水が小さな流れをつくって静かな音を立てている。
フォト

野生のフジが群生している。
フォト

何処迄歩いても、印が何もない。
ふと脇に見えた木札。
フォト

イノシシか何かが出るのだろうか。
人には1人も出逢わない。
仏像も見当たらない。

不安になって、戻る事とした。
しばらく歩くと、先程の分かれ道に出た。
そこで周囲を360°見回すと、小川の向うの縁に細い道がある。草が生い茂っていて、道とは言い難い。が、左「阿弥陀仏」の道標は、私が先程歩いた山道でなく、この脇道を指しているのかもしれない。
分け入ってみると、濃い緑の中に1体の石仏を見つけた。
フォト

苔がまとわりつき、周囲とすっかり馴染んで、これでは離れた所から分からない。
石造りの阿弥陀仏立像である。
誰が造ったのか、暗示させるようなものはない。
先に触れた「五如来」なる言葉が関係する物がないかと思い見回すが、周辺に石の欠片はあるものの、像らしきものは一片もない。

諦めて、湿った草々を踏み、先程の角迄戻った。
近藤家墓所は、ここからやや広い山道を真っ直ぐ上がっていけば良さそうだ。

しばらく歩くと、陽の射す所へ出て、たくさんの墓石が並んでいるのが見えた。
倒れているものも、彫られた文字の判らなくなったものもあり、また最近建てられたような真新しいものもあった。

正面の4つの四角柱の墓石。
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「従五位下藤原用和之墓」
「藤原用吉之墓」等と文字が見える。
傍らの小さなものには、夫人らしき名が掘られている。

それらとは別に、列の左奥中央に六角柱の最も背の高い墓石。
フォト

彫られた文字は「本山大檀越棲雲院語石性訥老居士之墓」だろうか?
別面には「元禄九年丙子二月二日」、
「享年九十一歳」とも見える。

現地で解ったのはここ迄である。

このあとは、帰ってからあれこれ調べた結果だ。

六角中の墓石は、近藤貞用のそれで間違いなかったようだ。法名は確かに貞用のもの。
彼は1606(慶長11)年に生れ、1696(元禄9)に没している。年号も合っているし、享年は数えで91歳であった。

近藤家は藤原氏秀郷の流れを汲む士族だと自称していたようだから、四角柱の墓石の「藤原」も分からなくはない。
順列は違うが、名前の中に「用」があるから、近藤貞用の下流の人物と見てよいだろう。

近藤家は気賀の関所も治めていた名家だから、墓所は現在の北区あちこちにある。
気賀の街を見下ろす呉石の山の中腹にも何代かのものがあるし、実相寺には貞用の父 季用の墓廟があり、龍潭寺には井伊家のエリアの端に康用の墓がある。
近藤家は江戸勤めもしたから、不忍池の西、下谷池之端の稱仰院(しょうこういん)にも秀用の墓があるとの事だが、こちらはまだ確認していない。

「五如来」については、宝林寺のホームページの中で関係する写真を見出だす事ができた。
https://www.oubaku.org/shosan/sekibutu.html

それによると、私が林の中で見つけた石造阿弥陀仏立像の前に、5つの如来坐像が並んでおり、一組のものとして扱われていたようだ。
何時頃壊れて散逸してしまったか、それについては何も書かれていない。
 
この日は、12,100歩歩いた。
 
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